浮浪者の物語(「クリスマスの人参」より) (2006年上半期執筆)
クリスマスの街は輝いていた。余りに眩く輝いていたために、全ての不幸せが見えなくなっていた。俺は空腹が高じての胃の痛みを抱えて、のろのろと道路を横断していた。街角には、真綿で作った付け髭を付けたサンタ・クロースが、屈託の無い笑顔を浮かべてガラガラとベルを振り回していた。「メリー・クリスマス!ホー、ホー、ホー!」彼は道行く人間たちにそう呼びかけていた。俺が彼の前を通りかかった時、彼は一際大きくベルの音を立てて、その文句を言ってくれた。「メリー・クリスマス、お爺さん!ホー、ホー、ホー!」
・・・。
―俺はまだ二十過ぎだ。お爺さんではない。しかし、仕方のないことだ。空腹に敗れた胃を抱えて背中を丸めた俺の足取り、そして、ゴミ箱をはしごするうちにすっかり汚れてしまった俺のアゴヒゲは、確かに老いぼれた山羊そのものに見えたことだろう。ポケットには、空っぽのウヰスキーの瓶。この瓶に開いていた穴は、買った時からあったものなのだろうか。
シャツ一丁の我が身に、塩辛い寒風が染み渡った。さすがに、今晩は橋の下で眠るわけにはいかないようだった。あの騒々しく心地よい夏が、こんなにも遠くに去って行ってしまうものだとは思ってもみなかった。俺は昨日の夜、あまりの寒さに耐えかねてコートを燃やしてしまったのだ。火はすぐに消えた―。俺はガチガチと歯と歯をぶつけ合いながら、炭化したボロ布に諦めもせず手をかざしていたものだ。あんな夜は二度と過ごしたくない。二度と。美しい思い出にすらなりやしない。
復員兵と傷痍軍人の一団が、道端で管楽器を演奏していた。ひどく陳腐で、涙が出るほど懐かしい曲をやっていた。俺は自分がぼろぼろと涙をこぼしていることに、暫くは気付かないでいた。俺は想像上のコントラバスを担いで、喘ぐようにして道を歩き始めた。まるでジェリー・ルイスのような、滑稽な歩き方をしながら。
「メリー・クリスマス、ホー、ホー、ホー!今夜はとくべつ寒い夜だから、ウォッカが美味しいわよ!」前方で若い女の声がしたので、俺は顔をあげた。その女は安い火酒を売る屋台の前で、大きな看板を体の前後にぶら下げて声を張り上げていた。「ちょっと、おじいさん!」と彼女は俺を呼び止めた。「一杯どう?」
「俺はおじいさんじゃないよ」俺はいい加減うんざりして言った。
「じゃぁ、お兄さん」と彼女はグラスを俺の目の前に突き出して、言った。「半端ないほど、暖まるわよ」
俺は懐を寒くして、彼女のグラスを受け取った。燃えるように熱い『神様の涙』が俺の喉をつたい、四肢の隅々にまで染み込んだ。最高だ、と俺は思った。これで、もう暫くは生きていられる。
サンドイッチ・ウーマンは、先刻とは毛色の変わった目つきをしながら、俺の耳元で囁いた。甘ったるくて、ほんの少しだけネギくさい息が俺の顔にかかった。「別料金、払う気がある?」
「払う価値があればね。」
「払える額だったら、でしょ」女は鼻で笑って、値段を告げた。珍しいくらいに安い額であることは確かだったが、俺の残りの所持金(全財産)とぴったりだった。
暫く考えた後、「オーケー」と俺は答えた。「これで、本当の文無しになっちまうけど、もういいや。今夜はとくべつ寒いようだしな」
女は俺を連れて裏通りに入った。ひんやりとしていて、同時に生暖かくもある奇妙な風が、路地を通り抜けて行った。彼女は、汚い宿の腐りかかったドアの前で立ち止まり、振り返った。
「いいこと」女が囁いた。「30分、きっかりよ」
言葉通り、8時半に始まって、9時に終わった。俺はラフレシアの形に似た壁のしみを見つめながら、追加料金を払わないでもう30分間ここに居てもいいか、と尋ねた。彼女は肩をすくめて答えた。「しょうがないわね。まぁ、いいわよ。」そして、煙草に火をつけながら付け足した。「あたしも思ったより疲れちゃったしね。でも、もう何もなしよ」
彼女は立ち上がって、隣の部屋に消えた。俺は彼女の後姿をぼんやりと眺めた。街角に立っている時には気付かなかったが、彼女はひどく痩せこけた体をしていた。何百人もの人間が、何も残すことなく彼女を通り抜けて行ったのだなあ、と俺は思った。
戻ってきた彼女の手には、野菜のスティックが入った容器が握られていた。彼女は再び布団の中に滑り込み、俺に「食べる?」と尋ねた。
「種類は?」
「人参があるわよ」
「他のものは?」
「大根が少し」
「じゃぁ、人参をもらおうか」
彼女は容器から一本抜き取り、俺に咥えさせた。鼻に抜ける、ツンとした辛さ。「これ、大根だよ」
「あぁ、ごめんごめん」彼女は(今度こそ本当に人参をつまみ上げ)俺に渡した。
「何だか、こういうやり取りを何処かで見たことがある気がするな」人参を齧りながら(それは実に甘くて美味い人参だった)俺は独り言のように言った。
「ベケットよ」と彼女。
「そうだ、『ゴドーを待ちながら』の中にこんなシーンがあったな」そう言い終わって五秒後、俺は彼女の口からベケットの名前が飛び出したことの意外性にようやっと気がついた。「よく知ってるな!」
「まあね」彼女は大根を齧り、その辛さのために鼻を抑えた。「ねぇ、仕事はなにやってるの?・・・というか、仕事はあるの?」
「あるさ。家は無いが」と俺。
「どんな仕事?」
「つまらない仕事だよ、ゲイジツ関係のね。」俺は(再び挑戦した)大根の辛さに辟易しつつ答えた。「給料は全部酒に変わっちまうよ。本当に全部そっくり、酒になっちまうんだ。さっきあんたに払った金も、全部ワインにする予定だったんだ。おかげで下宿も追い出されて、今ではホームレスだよ。まぁ、それでも、職があるだけマシなんだろうけどね。本当はローマ帝国の貴族になりたかったんだがね」
「あんたに貴族なんて似合わないわよ」彼女は腹を抱えた。
「似合わない者になりたがるのさ、誰しもね」
俺は溜息をひとつついた。
「なぁ、なんのために生きてる?」と俺は尋ねた。
「看板を背負うためかしらね」
「なんのために看板を背負うんだ」
「生きるためによ」彼女は咳き込みながら答えた。「生きることの意味、なんてくそくらえよ。なんでもかんでも理由付けができるってもんじゃないわよ。どんなうまい説明を持ち出して来ても、私は絶対に納得しないからね。生きることって、ただただ理不尽なだけよ!私はそんな理不尽な人生を、ありのままに受け入れていくだけよ」
俺は肩をすくめて、新しい大根を口にした。今度のは、我慢できないほどの辛さだった。涙が出た。「もう人参はないの?」「残念ながら。」
俺は彼女に、「悪いけど、水もらえるかな」と頼んだ。
冷たい水を飲むと、生き返る心地がした。俺は胸の中に広がる素晴らしい爽快感を味わいながら、先ほど30分に渡って展開していた「情熱的な」行為の思い出に浸った。この痩せぎすの女が、あれほどのエネルギーを隠し持っているとは。「V2ロケットでも落ちてくるかと思ったよ。」と俺は言った。
「トマス・ピンチョン著『重力の虹』より引用」彼女は笑いながら言った。「ねぇ、あんた、引用するのはいいけどちゃんと読めたの?あの難しい本を」
「君はえらく文学のことにくわしいんだね」俺は半ば呆れて言った。
「ベケットもピンチョンも常識でしょう」と彼女。
「図書館に勤めたらどうだ」
「その必要はないわね」彼女はするりと布団から抜けると、立ち上がってガウンを羽織った。「ついていらっしゃい」
階段は地下室に続いていた。彼女は重たい扉を、ゆっくりと時間をかけて開いた。開かれた扉の間から、古びた紙とインクの匂いが溢れ出てきた。「さぁ、お入りくださいませ」と彼女はおどけてお辞儀をした。
俺は息を呑んだ。その広大な地下室には何千個という本棚が整然と置かれ、古今東西の書物がずらりと並んでいた。誰もが知っている名著もあれば、不遇な無名作家が残した廉価本もあった。俺は震える足取りで、憑かれたように本棚の間を歩き続けた。
「すごいよ」ほとんど失語症に近い状態に陥っていた俺は、そう繰り返すのがやっとだった。「すごいよ、本当にすごいよ」
「私はこれらの本を全部読んだわ」俺の後ろで彼女が言った。「いくら読んでも、どんな答えも得られなかったし、それどころか、読めば読むほど色んな疑問が増えてゆくばかりだった。」彼女はここで目を閉じ、夢見るような口調で言った。「でも、それはすごく楽しい作業だったわ。不毛な作業かもしれない、でも私にとっては、この上なく素晴らしい遊戯だった。このかび臭い、紙切れを束ねただけのがらくたの向こう側に、どれだけ歓びに満ちた世界が広がっていることか!」そして彼女は目を開いて、言った。
「毎晩、たくさんの人たちが私の中を通り過ぎてゆく。そして毎晩、たくさんの本が私の中を通り過ぎてゆく。そう、そんな風にして私は生きているのよ。」
※
約束の時間が過ぎた。俺は再び通りに戻って、艶やかに飾り付けられた街を行く当ても無くさまよった。たくさんの人々が行き交っていた。みんな、それなりの重みを背負ったまま、何処から来て、何処へ帰ってゆくのだろう。俺は飽きもせずに、雑踏をたゆたい続けた。
青白い顔をした男が、子供らを集めて人形劇をやっていた。空腹を友人にしてしまった貧しい天使たちは、目を輝かせて救済劇に見いっていた。小さな舞台の上に身をかがめた男は無気力な目をしていたが、人形はいきいきと跳躍していた。俺は石畳の上に胡坐を描いて、子供らの頭越しに奇跡の一部始終を見守っていた。
やがて、主人公の少年が天に召され、幕となった。子供らは興奮冷めやらぬ様子で、ちりぢりに帰って行った。俺は拍手をしながら男に歩み寄って、言った。「ブラボー。いい芝居だったよ」
男は、神様の人形に目を落としながら、つぶやく。「神様なんか、いやしないよ。あんた、どう思う?」
「多くの人が気の無いクリシェを投げつける、荘厳で、滑稽で、退屈な飾り付けの中には、いないだろうね」俺は言った。「しかし、あんたの客の子供たちには、ちゃんと神様が見えてただろうよ。」
男は、静かに言った。
「俺は神様なんか信じちゃいないんだ。教会も賛美歌も大嫌いだよ。でも、俺は時々、ひどく困った時だとか、心配でたまらない時、やりきれない時には、我知らず祈ったり、お願い事をしたりするんだ。一体誰に向けてそれをやってるのか、自分でもわからないんだ。そのわけのわからん相手、でも、俺の繰言を黙って聞いてくれる相手、ひょっとすると、それが神様と呼べるものなのかもしれないな」
「あんたは立派な信徒だよ」と俺は言った。「メリー・クリスマス」
俺は一体どれだけのものを、ちっぽけな焚き火の中に捨ててしまったのだろう。出鱈目に歩くうち、何かにぶつかった。見てみると、それはみすぼらしい飾り付けをされたクリスマス・ツリーだった。俺はそれを背もたれにして座り込んだ。
上を向くと、冷たい風が肺の中に入ってきて、呼吸が楽になった。夜空いっぱいにトナカイの絵が、下手くそな筆遣いで殴り描かれていた。子供たちが眠りについたんだ、と俺は思った。夜空いっぱいのトナカイを夢見ながら。
あぁ、サンタさんよ、俺にも何かくれよ。俺はよい子じゃないんだけれども―。俺は、あんたが昔くれたはずのものを全部、何処かに無くしちまったんだ。靴下に、大きな穴が開いてたんだ。
あぁ、神様、俺を見てるのかい?俺はあんたに何もあげられやしないんだ。酒ですっかり阿呆になっちまった俺にはもう、せいぜいこうやって無駄話を物語ることぐらいしか出来やしないんだ。だから神様、ほんの少しばかりでいいから、俺にお情けをかけてくれ。だから神様、ほんの少しだけでいいんだ、俺にお情けをかけてくれ。
だからみんな、メリー・クリスマス、お休み。
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