金の鱒 (2003年下半期執筆)
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1
退屈な三月二七日の昼下がりだった。僕とジョウジは、シケたサービスエリアの食堂の片すみで、カラシの量が不思議なくらいに少ないホットドックをかじりながら、無駄にヒマをつぶしていた。春休みなのだから、ニコニコ笑顔をのっぺりした顔面へはりつけた親子連れでごった返していそうなものだが、このシケたサービスエリアには、目下のところ僕とジョウジと、さっき入って来てヤキソバを注文した貧相なトラック運転手のおっさんの計三人しか居なかった。とは言え、それもしごく当然なことに思える。このサービスエリアときたら、あまりにも酷すぎるのだ。駐車場は借りてきた猫の額くらい狭いし、休憩所はバラックみたいにぼろぼろであるし、しょぼいキーホルダーやら饅頭やら何かを売る土産物売場と、カラシのついてないホットドックを売る食堂があるだけ。
どうにかならんのかね、まったく。
「困ったねぇ、水玉スカーフ君よ」ジョウジが言った。「このままじゃ。次の車がつかまらないままここで野垂れ死にだよ」
「そのアダ名、やめてくれよ」僕は、ともすればパンから落っこちようとするソーセージと闘いながら答えた。「何万回言えばわかるんだ?」
「あいにく俺にゃ学習能力が欠けてるんでね」ヒクヒクヒクと笑ってジョウジが言った。「なぁ、そこにある塩の瓶をとってくれよ。水玉スカーフ君」
僕は塩の瓶を片手に、「もう一度水玉スカーフって呼んだら、どうなるかわかってるよな」
「どうなるのさ」どジョウジ。
「二度と塩の瓶をとってやらない」
「オー、ママ!水玉スカーフの野郎が塩の瓶をとってくれないんだってよぅ!」ジョウジは裏声で言って、笑い転げた。
彼が笑い止むのを待って、言った。「よくそんなに明るくしていられるよな、このチキン野郎」
「だってやってらんねえよ。このままじゃ俺達ずっとここでだべり続けるハメになるよ。どう考えたってここへ止まる車なんて、そうそういやしないよ」ジョウジは唇のはしのよだれをぬぐいながら言った。
それから僕らは少し気まずくだまりこんで、ホットドックを食べていた。貧相なおっさんは、(悪漢とわたり合うハメになった時のバスター・キートンのような)ポーカーフェイスでヤキソバを事務的に、あくまで機械的にすすりこんでいた。
ジョウジの方をむくと、彼は不思議な方法でホットドックを喰っていた。まずソーセージをパンからぬきとって、先に食べてしまう。そして、残ったパンをじゃぶじゃぶとコカコーラへひたして、かじっている。
「なぁ、ジョウジ君よ」
「なんだい、スカーフ君?」
「俺も今まで色んな人間に会ってきたけど、ホットドックのパンとソーセージを別々に食べてる奴は生まれて初めてだな」
「知らないのか?ホットドックの大食い大会ではみんなこうやって食べてるらしいぜ」コカコーラ・パンをもぐもぐやりながらジョウジは事もなげに答えた。「こうして食う方が効率がいいらしいよ。」
なぜそれをサービスエリアで実践しなくてはならないのか、という点は疑問の残るところではあったが、そんなことは僕にとっ てどうでもよいのだ。
そのとき、ヤキソバを(事務的に、あくまで機械的に)喰い終わったおっさんが席を立とうとした。「おっさん、ちょい待ち!」ジョウジが叫んだ。
おっさんは(悪漢を思ったよりカンタンにやっつけることが出来たときのバスター・キートンのような)キョトンとした目でジョウジを見た。「何だ?」
「おっさん、俺達ゃヒッチハイク旅行をしてるんだが」ジョウジはせわしなく言った。「もしOKシティの方向へ行くんなら乗っけてくれねぇか?」
「OKシティ?」おっさんは少し考えて、答えた。「ショウガ山の交差点あたりまででいいなら、乗せてってやってもいいが」
僕等は思わず顔を見合わせた。そして、おっさんに向き直って言った。「まじすか」と僕。「まじかよ」ジョウジが少しおどろいて言った。「いやァ助かった。まさかほんとに連れてってくれるとは思いませんでしたぜ、旦那」
「いやぁ本当に、おっさんは神様です」と僕は拍手をした。
「この御恩は一生忘れやせん」とジョウジはもみ手をした。
おっさんはようじを使いつつ少し苦笑いしながら、阿呆丸出しの僕等を見ていた。そして、つまったネギがとれたのか口をモゴモゴっとやってようじを床へほうり捨てた。
「それじゃ」とおっさんは手を出した。
俺たちがきょとんとしていると、おっさんは不敵な笑みを浮かべて言った。「まさかタダで乗るつもりじゃあなかろうね?」
2
「なんでOKシティへなんか行くんだ?」とおっさんが言った。「あそこは何にもねぇ街だぞ」
僕とジョウジはおっさんの横で、ひとりがけの助手席に仲良く腰かけている。せまいったらありゃしなく、息も満足にできない。その上ジョウジの左ひじが腹へめりこんでやがる。ひとり二○○○円も払って、一体なぜこんな劣悪な環境に耐えなければならないのか、まったくもってわからない。(「東京でこれだけのスペースを買おうと思ったら、ン百万もかかるんだぞ」とおっさんは言った。だから何なんだ。トラックの助手席に家でも建てようってのかい?)
「たしかに何にもないとこですけど」ジョウジのひじ鉄を腹へ受け止めたまま、息もたえだえに答えた。「俺の実家があるんです」
「それよりおっさん」とジョウジ。「なんとかならねぇの?俺達この助手席へ二人で腰かけているんだけど」「せまっくるしいったらありゃしませんよ」
「東京で電車へ乗ったらそれよりもっとせまっ苦しいんだぞ」とおっさんが言った。だから何なんだ。東京じゃ電車の中へトラックの助手席があるとでも言うのかい?
「文句があるなら、おりてくれ」僕の心の叫びをそれとなく察したのか、おっさんは高倉健のような口調でそう言い放った。
「とんでもありません。文句なぞございません」僕等はそう斉唱した。「こんな快適なドライブは生まれて初めてです」その後申し合わせたようにゲップをもらした。
そして僕等はだまりこんだ。この体勢で漫才をするのにはあまりにも無理がありすぎる。僕とジョウジは、ちょうど、「学校のマラソン大会で、最初は友達とぺちゃくちゃしゃべりつつタラタラ走っていたのだけれでも、折り返し地点を過ぎたあたりからだんだんと呼気が苦しくなってきて、そのままなんとなくまじめな顔をして口をつぐんでしまった」時のような、そんな感じでだまりこんだ。
青々とした山々が脈々と続き、春のクリーム色の日ざしが淡くそれをふちどっていた。まったくもって、退屈な三月二十七日の午後だった。
今度はおっさんの方が口を開いた。
「俺はもう仕事を止めようと思っててね」おっさんは鼻毛をいじくり回しながら言った。
「だからあんたらが、俺が乗せる最後のヒッチハイカーになるかもしれないな」
「はぁ」と僕は言った。「そうすか」とジョウジは言った。どうでもいいけどおっさんよ、興が乗ってきたからって両手で抜くのは止めてくれよ。せめて片手だけでもハンドルへそえておいてくれよ。
「俺はこの仕事がすきだがな、どうもな」おっさんはくしゃみを三発ばかりした。その度にアクセルを踏みしめるので、トラックは不規則に加速しまくるのだった。
「ところでおっさん」首を四十五度右へねじ曲げたジョウジが尋ねた。「このトラックは一体何を運んでるんだ?」ジョウジは相手が暗い話を始めるとそれとなく話題を変えるのだ。
「レンズ豆だ」とおっさん。「何十トンものレンズ豆だよ。このトラックの荷台の中にはギッシリ豆がつまってるのさ。俺はそいつを何万マイルもエッチラオッチラ運んでるってわけだ」
「鼻毛抜きながらな」とジョウジがそっとつぶやいた。
さて、ここでどうでもよい話をひとつ。レンズ豆という名の申来について。よくよく考えてみればレンズ豆というのは実に不可解な名称である。レンズと豆、これらはまるで手術台の上のミシンとコーモリ傘と同じくらい異質な二物である。レンズと豆、この異質な二物を結びつけている接点とは何なのか?意外や意外、これは史実が関係している。ある豆の新しい品種が開発された時期とほぼ同じ時期に、レンズが発明された。そのためその品種はレンズ豆と名付けられた。ただそれだけの話だ。もし万歩計が発明された頃に開発されていたら万歩計豆になっていたろう。
「何十トンものレンズ豆をね、何万マイルもエッチラオッチラ運んでるんだよ。何万マイルもね」おっさんは歌うようにくり返した。 僕はおっさんの話を基に一曲歌詞をこしらえた。細部のディテールは忘れたけどだいたいこんな内容だ。
れんずまめはこんで一千マイル
れんずまめはこんで一万マイル
あさからばんまで れんずまめはこんで
れんずまめはこんで百万マイル
僕が曲をつけようと考えている間に、おっさんはマス釣りの話をしだした。すると今までおっさんの話には無関心を決めこんでいたジョウジがガゼン興味を示した。(彼は無数の釣好きなのである)おっさんは常時トラックに釣具一式を積んでいて、添流の近くを通りかかると即座に車を停めて釣りを開始するのだそうだ。
「でも、そんな事したら仕事に支障が出やしませんか?」と魚釣りを知らない僕が尋ねた。
「そりゃ出るさ。でもそれがどうしたってんだ?」と魚釣りに長けたおっさんが答えた。「そうだよそれがどうしたってんだ?」と魚釣りに長けたジョウジも賛同した。「釣りのためなら女房も泣かす、というだろう」
おっさんは五年前に、二メートルを超える巨大なマスに出会ったという。
「その日のことは生涯忘れやしないな」とおっさんは、夢見るような目で言った。鼻毛を抜く手も止めて。
「その話をくわしく教えてくださいよ」とジョウジが懇願した。
「まさかタダで聞こうってつもりじゃあないよな?」とおっさんが言った。その時おっさんのにごった目がギラリと黄金色に光ったのが何とも印象深かった。
ジョウジは当然のことのようにサイフから千円札を取り出した。僕は止めなかった。これでジョウジは、無一文だ。
3
「五年前のある日のことだった」とおっさんは、セッセと鼻毛を抜きながら語り始めた。「その日は実にいい天気でね。俺は釣りがしたくてしたくてしたくてたまらなかった。荷台にはクルミといっしょに釣り具を乗せていたし」
「その頃はレンズ豆じゃなくてクルミを運んでたんすか」とジョウジが真剣に尋ねた。
「まぁ、そうだ。それで、とにかく早いとこ川をみつけなきゃと思って、慌ただしく山あいの道を走っていた」
「職権濫用の上にスピード違反」僕はソッとつぶやいた。
「ようやっと左手に、太陽の光沢がキラキラと水面を覆いつくしている。大きな添流が見えてきた。いかにも釣れそうな川でね、あの水の中へまだ釣針へひっかかっていないマスがうようよひしめいているんだと思うと、もういてもたってもいられなくなってね。俺は道路のはじへトラックを停めて、釣り竿をかつぐと一目散に川へ向った。ガードレールを乗りこえ、丘の斜面をかけおりる」
ジェスチャー付きで語らないでよ。ちゃんとハンドルを持っといてくれよ、おっさん。
「ほとんど転がるようにして川辺へたどりつき、サァ!と竿の準備を始めるなり思わず固まった」そしておっさんはぶり回していた手を下ろし、厳かに言った。「エサを忘れた」
「ルアーは?」とジョウジ。「ああいうオモチャは使わない主義でね」おっさんは鼻毛抜きを再開した。「それじゃどうしたんすか」と僕。「まぁアセるな、坊や。本物の釣り師はそんなことで慌てたりしない」本物の釣り師はエサを忘れたりもしないと思うけれども。「俺は周りを見回してみた。見渡すかぎり草が生い茂っている。バッタの2,3匹を見つけるのはそう難しいことじゃないだろう」おっさんは立て続けに五発ばかりくしゃみをした。「それから一時間半で、二匹のバッタを捕獲した。そしてこいつをエサにマスを釣ることにした」
「一時間半もバッタを追ってたんだってよ」僕はジョウジにそっと耳打ちした。
「釣り針の先へバッタをつき刺して、川へむかってほうり投げた。そしたら、そいつが水面へ到達するかしないかの間に」おっさんは手をぶんぶんとふり回した。「きたんだよ、当たりが!釣り糸を垂れるなり、哀れなマスちゃんがくらいついてきやがったのさ!」
そこでおっさんは言葉を切り、窓を開いた。風がゴウゴウと物凄い音で鳴いていた。おっさんは痰をピュッと吐いた。痰は春の陽射しにヌラヌラ輝きながら流れて行った。
「こうして俺は小ぶりのマスを釣り上げた。さっそく俺はそいつを岩の上へ置いて、ジャックナイフでさばいた。」
「エサは忘れたが、ジャックナイフは持っていたと」ジョウジが真剣に言った。
「まず頭から尾ひれにかけて真っぷたつにして、ナマのニオイがプンプンするハラワタをきれいに抜きとった。そして、腹の中がカラッポになったそいつを川へ浸して洗った。ハラワタは岩場へ置いといた。たぶんイタチやなんかがやって来て喰っちまっただろうよ。
さて、俺はといえば、すっかりおとなしくなってしまったマスをクーラーボックスへ放りこんで(クーラーボックスまで用意しているのに、何をどう間違ってエサを忘れちまったんだろうね、と僕は思った)次なる獲物を求めて竿を手にした。とその時、残りのバッタがいつの間にか逃げちまっていたことに気がついた」
「おっさん、あんたもしかしてドジかい?」僕は呆れて言った。
「釣りの心を解さんバッタだった」おっさんは無視して続けた。(ダッシュボードの上へセッセと鼻毛を植えながら)「それで俺は、また一時間半かけてバッタを追わなけりゃならないのかと少し絶望的な気分になった。(そりゃなるだろうな。と僕は思った。)いかに優秀な釣り師でも、絶望する時はあるってもんよ。(ああそうですかい。そりゃケッコウなことで)しかしそこで俺は妙案を思いついた。俺はくつひもをナイフで細かく刻んで、釣り針の先へひっかけて、川の中へ放りこんだのさ!」
「ちょっと待って、おっさん」ジョウジが首をかしげて言った。「なんでまた、くつひもをエサにしたんだ?」
「糸ミミズとまちがえて、マスがくらいつくかと思ってさ」おっさんはまるで自分の生年月日を答えているかのような事も無げな口調でいった。
「あんた阿呆だ」と僕はさすがに呆れて言った。「釣った鱒の一部をエサにすれば済む話じゃないか」
「共食いを助長したら、生態系に悪影響を及ぼすじゃないか」とおっさん。はなはだ疑問なのだが、彼は考えて物を言っているのだろうか。
「それで、どうなった?」とジョウジ。
「投げこむなり、くらいついてきた」おっさんは胸をはった。
「そのマスはあんた以上のドジだ」と僕は言った。こんな汚い中年男のくつひもに食らいつくとは。
「問題はその後よ」おっさんは、鼻毛を植える手をとめた。
「おっ、くらいついたなと俺が思った○コンマ一秒後。釣り針の先っちょにしがみついているそいつが、信じられないような馬鹿力で俺をひっぱったのさ。糸は切れそうになるまで張りつめて、竿は折れそうになるまでしなり、そして俺の両腕には百万トンもの重圧がズシンとのしかかった。俺はずるずるとひっぱられて前進した。恐怖と興奮が俺を満たした。でかい。異常にでかい。これは俺の釣り人生の中で文句なし一番の大当たりだ。いや、俺の歴史のみならず、釣りの歴史上にも残る大当たりかもしれん。こいつを釣り上げたら、俺はギネスに載れるかもしれん。でも釣り上げられなかったら、俺は川底へひきずりこまれちまう!川の流れがとまったように思え、風の音すらも耳へ入らなくなった。俺は川辺の岩へ足をかけて、あらん限りの力で竿をふり上げた。ふり上げたつもりだが、マスの馬鹿力ったらなくて、プラスマイナスマイナスで、俺はやっぱりまだ引きずられたままだった。竿は、あの化け物が水中をのたうち回るのにあわせてびんびんとしなりまくり、はたから見ていたら俺がマスに釣り上げられようとしている風に見えただろう。いや事実、そうだった。俺にはもう理性なんてなかった。何千年も前にマンモスを追いかけていたご先祖様の血が、俺の体中を駆けめぐった。止まっていた息が、肺から爆発するように吹き出して、そいつは「畜生」という音とともにあたり一面をびりびりとふるわせた。その瞬間、ザバンという音と、俺の背よりも高く上がった水しぶきとともに、俺の目の前へあの化物があらわれた。二メートル、いや三メートルはあっただろうか、ほんの一瞬だけ、そのマスの化物は空中へおどり上がった。そしてその直後、ザバンという盛大な水音と、俺の背たけよりも高い水しぶきを立てて水中へ落下した。
釣り糸が、耐えかねて切れちまったのさ」
沈黙の空気がゆっくりと車内を横切った。おっさんは鼻毛をブチブチブチとひっこぬいて、ダッシュボードへなすりつけた。そして、フゥと細く長く息を吐いて、続けた。
「俺は呆然と、激しく波が立っている水面を見つめていた。なんてでかいマスだったんだろう。いや、夢だとしか思えない。遠い昔にサルが立ち上がってから今に至るまでの歴史の中で、あれだけでかいマスを見た奴は俺しかいないだろう。俺はひざっこぞうを抱えてしゃがみこんだ。しばらくの間動けないでいた。恐怖心がうすれていくにつれて、くやしさがこみ上げてきた。チクショウ、もしあのマスを釣り上げたら、俺は歴史に名を残す英雄になっていたのに。こんな話、誰も信じちゃくれないだろう、俺は一生、あのでかいマスの思い出を、自分の胸ン中へもてあましながら平凡に生きなきゃなんねぇんだ。俺はもう少しで、究極のマスをつり上げられてたんだ。究極の、最大の、そしてまぼろしのマスを。」
おっさんはそこで言葉を切り、少しの間目をとじていた。(時速百三○キロでぶっとばしながら、である)そして、再び目を開いた。「奇跡が起こったのは、それからだ。
その時突然、川の水面がキラキラと輝き出した。不思議に思って見ていると、なんと水中から、白い羽衣を身にまとった、絶世の金髪女性が現れた。彼女は右手に金色のマスを、そして左手に、俺が釣りそこねた、あの怪物を持っていた。金髪女性は俺にむかってこう言った。
『私は川の女神です。あなたが釣り落としたのはこの金のマスですか、それともこっちのマスですか?』
俺は小便ちびりそうになりながらも、はじけるように答えた。『へぇ、そっちの、金じゃない方のマスです』ってね。すると女神はニッコリ笑って『あなたは正直者ですね』と言った。俺はうなづいた。すると―――するとだ、信じられないことがおこった。その途端、彼女は醜い中年のおやじに変身したのさ―――アッケにとられてポカンとしている俺に向って、女神改め中年おやじはこう言った。『私は魚釣り監視官だ。この川は禁魚区だぞ』そして俺は罰金一万円をとられちまった」おっさんの物語はそこで終わった。ニヤッと笑っておっさんはこっちをむいた。
「どうだ、少年たちよ、タメになる話だったろ」
「お前はこんな阿呆話に千円払ったんだぞ」と僕はジョウジに耳打ちした。ジョウジは無言だった。口をあんぐりと開けたままで。
4
やがてトラックは高速道路を下り、ショウガ山のふもと近くの交差点で止まった。
僕とジョウジはフラフラとトラックから降り立った。長時間にわたって軽業としか思えない体勢をとっていたため、体中の関節はどう動けばいいのか忘れちまっているようで、なかなか思いどおりに立っていられないのだった。
「ここでよかったかな?」おっさんもトラックから降り、僕とジョウジの前へ立った。
「ええ、ここでけっこうです」と僕。「よい旅を」おっさんが右手を差し出した。(さきほど鼻毛を収穫していたのは、幸いなことに左手だった。)
「ミスター・ペテンおやじ、楽しい旅でした」と僕はおっさんの右手をにぎった。
「ミスター・くそったれおやじ、面白い話をありがとう」とジョウジも握手をした。
おっさんは気まり悪そうに笑って言った「金、返そうか?」
「いらねぇっすよ」ジョウジは悟り切った顔をしていた。
「それじゃ、プレゼントって言っちゃあなんだが、ちょっといいものをやるよ」そう言い残して、おっさんはトラックの荷台の扉を開いた。
二分ほどして、おっさんは何か大きな白い箱をかかえて、降りてきた。おっさんはフゥ、フゥと荒く息をしながらその箱を僕らのところまで持って来て、でんと地面に置いた。
おっさんは箱のフタをとった。中をのぞきこんた僕とジョウジは思わず息をのんだ。見たこともないようなでかいマスが横たわっていた。
「今朝つり上げたんだ」おっさんはマスの目を見つめながら言った。「さっきのホラ話に出てきたマスよりは小ぶりだがね、俺が今までに釣ったマスの中じゃこれが一番でかいだろうよ」
「しかしおっさん―――」と僕は言った。が、何を言うべきかわからなかった。「そんな、おっさん―――」と言ったきりジョウジもだまってしまった。「本当にもらっていいの?」
「たぶんこいつはお前らのために、俺の釣り針へ食らいついて来たんだろうよ」おっさんは笑ってそう言った。「それじゃ、俺は、もう行かなくっちゃな」
おっさんはトラックへ飛びのり、次の瞬間、マンモスの屁のごとく巨大なエンジン音をぶっぱなして、走り去った。僕とジョウジはおっさんのマスを前に、無言でただただ立ちつくしていた。おっさんのトラックが見えなくなるまで、そうしていた。じっと、そうしていた。
「おや」マスに目を落として、ジョウジが言った。「見てみろよ、そのマス」
僕はしゃがみこんで、箱の中をのぞきこんだ。くしゃくしゃに丸まった千円札が四枚、マスの下へおしこめられていた。
僕は思わずニヤリと笑った。「なかなかイキなことするじゃんか、あのダディは」
「まったくだ」とジョウジ。そして僕等は大笑いして、マスが寝ている箱をかつぎ上げた。「全額は返金していないところがさすがだな」
「ところでさ」とジョウジ。「話変わるけど、お前、その変テコなスカーフやめたらどうだ?」
「うるせぇ、ほっといてくれ」と僕は言い返した。ジョウジは朝からずっと、僕が巻いている水玉模様のスカーフにケチをつけ続けているのだ。
「ワァ、水玉スカーフ君が怒ったァ」
「いい加減にしねぇと、この箱お前ひとりに持たすぞ」
「持ったら、塩の瓶はとってくれるのかい?」
「知るか、阿呆」
僕等はマスの箱をかついて、田舎道を歩き続けた。
たぶんそれは、純金のマスよりもずっと重かったことだろう。
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