遠い山で聞こえるハーモニカ(2004年上半期執筆)


♪♪♪

からからに乾いた風が、からからと笑いながら表を走り抜けていった。ここなはぐるぐるとマフラーを巻き直した。すれ違いざまに、風が僕のコートに体当たりをして行った。僕は思わず「おお寒」とつぶやいて身震いをした。
僕ら二人は、最寄りよりももうひとつ遠いバス停を目指して、アスファルト道をてくてくと歩いた。何故最寄のバス停でバスに乗らなかったのかというと、さして深い理由は無い。単に、もう少し歩きたかっただけである。
また風が吹いてきた。コートの裾がヒラヒラと舞っている。

少し傾斜になっている、団地の中のアスファルト道(ゴルフボールを置くと、ころころ転がって行く)をぬけて、田んぼ地帯に出る。古ぼけ黄ばんだガードレールが、細い用水路にそってあちこちに伸びている。
「この田んぼだっけ、カモがいたのは」と、ここなが道ばたへしゃがみこんで言った。
「あァ、たしかこの田んぼだよ」と僕は答えた。
二、三年前からこの田んぼではカモが飼われている。今は冬なので一羽もいないけれども、上半期には約三○羽ものカモがこの場所で放し飼いされていた。カモたちは「グァ、グァ、」とさかんに雄叫びを上げながら、田んぼの中を右へ行ったり、左へ行ったりしてひしめき合っていた。
ここなは、初めてカモたちを見つけた時には狂喜していた。それからしばらくは、その田んぼまで出かけて行き、道ばたにしゃがみこんだまま丸一日ずっとカモを眺めている、などということもしばしばあった。「見てて飽きないわねぇ、カモは」と彼女は言う。
風向きによっては、部屋までカモの「グァ、グァ」という鳴き声が聞こえて来ることもある。そんな時、ここなは筆を置き、僕もペンを置いて、その奇妙で滑稽な音色に聞き入っていた。ここなのスケッチブックの上には、たくさんのカモが踊っていた。
やがてまるまる肥ったカモはある日突然忽然といなくなる。ネギといっしょに鍋の中で生涯を終えたのだろう、と僕は思った。やがて季節は巡り、また次の代のカモたちがひしめき出すと、ここなはまたそれを眺めに出かけて行く。そして、カモの絵を五、六○枚も描くのだ。

もう少し行ったところには、ここなが個人的に「あばらやだんち(あばら家団地)」と呼んでいる場所がある。「あばらやだんち」は、サビだらけの農具が無造作に収納された納屋や、雨風でペンキが剥がれてしまったトタン屋根のバラックや、倒壊した小さな家などの廃屋が密集している区間である。そこは小学生たちのかっこうの遊び場で「危ないから遊んではいけません」と学校は厳しく言っているのだが、子供たちはどこ吹く風でかくれんぼをしたり、おかしを持ち寄って秘密基地ごっこをやっていたりする。中学生が隠れてタバコを喫うのにもずいぶん利用されているらしく、二つに折れたーー少しだけしか吸われていないーースイガラが山のように落ちていた。ヒッピーくずれの、髭を伸ばしたコジキが住みついたり、野良猫がやたらと集まるようになったりしたこともある(後に、その近くに住む一人暮らしの老婆が餌をやっていたことがわかった)。そんなわけで、ご近所の人は皆この「あばらやだんち」を不潔だ危険だ不良のたまり場だなどと言っては忌み嫌っている。
しかし何だかんだ文句を言われつつも、市の怠慢もあって、長い間「あばらやだんち」は解体もされずに放置されていたのだが、ついに来月から廃屋の取り壊し作業が始まることになった。
ことの発端は、中学生がタバコの不始末でボヤを出してしまったことである。幸い納屋がほんの少し燃えただけで怪我人も出ずに済んだのだが、上へ下へ、下から上への大さわぎになってしまった。(「火の始末もロクに出来んヤツがタバコなぞやるんじゃねぇ!」と、どこかの中年男が少年たちを怒鳴りつけていたのを覚えている。)
不祥事が現に起こってしまったのだから、行政もようやっと腰を上げざるを得なくなった。そして、あばらやだんちの命運はとうとう尽きてしまった。
「しがつ、とおかより工事をかいしします」ここなが、焼け残った納屋にたてかけられた、業者のホワイトボードを読み上げた。「四月一○日かァ」
「どんな風景になるのかな、ここを更地にしたら」と僕はつぶやいた。見当もつかなかった。

バス停のベンチに、何かの植物のツタが巻きついていた。素晴らしい生命力だった。
しばらくして、落穂台行きのバスが来て、僕らの目の前に停車した。ビールの栓をぬいた時のような小気味よい音がして、ドアが開いた。ここなはふり向いて言った。「さ、乗りましょう」

♪♪♪

「ちょっとこれ見てみな」
ある時リョウやんがそう言って、カニカマサラダを食べていた僕とジョウジに一○枚ほどの写真を見せたことがある。
木もれ陽を浴びて立っている小さなほこら、冷たそうなわき水、生いしげった草と竹がからみ合っているヤブ、木の枝の上で毛づくろいをしている小鳥などの写真にまじって、、呆気にとられるほど大きな木の横に立って不景気そうな顔をしている(でも、カメラを意識してか「チーズ」の顔をしようと少し努力したらしく、口元がこわばっている)貧相な若い男のスナップがあった。
「これーーリョウやん?」僕は少々びっくりして言った。
「その通り。」リョウやんはいつものように不景気そうに答えた。「俺が二五の時さ」
「信じられんな」僕は思わず吹き出しつつ言った。「リョウやんが二五だなんて」
「たしかに信じられないだろうな」別に怒った風でもなく、リョウやんは言った。「でも俺だって昔は若かったんだ」
「生まれた時からおっさんかと思ってたよ」大マジメな顔でジョウジが言った。
「年はどうでもいいが」どうでもいいことではないが、リョウやんは続けた。「あんたら、落穂山で遊んだこと、あるか」
「ない」「ノー」と僕らは答えた。
「おれが物心ついた頃にゃ、もう住宅地になってたもんな」とジョウジは言った。
「物心がつくどころか、おれは高校生になってからここに来たんでね。」と僕は言った。
「そうだな」リョウやんはうなづいた。「その写真はだな、落穂山の開発が始まる一ヶ月前に行って撮ったもんなんだ」
「ヘェ!」僕とジョウジは言った。
「俺は夏になるといっつも落穂山へひとりでハイキングへ行ってたんだ。」リョウやんは不景気そうに続けた。「その写真へ撮ってあるのは、全部俺が見つけたお気に入りのスポットさ、その、ホレ、わき水とか、そのヤブとか」
リョウやんの説明に合わせて、ジョウジはスナップをカウンターの上へ並べた。
「俺は毎年この山に登っては、こういったお気に入りの場所をひとつひとつ巡って行くのが好きでね。まだワキ水が枯れないでいるのを見つけるのは、実に気分のいいことさ。丸太が階段がわりに置かれた坂道、木もれ陽を背中へぬって流れて行く小川、その小川のほとりにはたくさんサワガニがいたもんさ。
それからそのヤブ…そのヤブの中にはタヌキが居るのさ。そう、タヌキな、それからもう少し行くと断崖絶壁に出てね、そこからは稲刈市が一望出来るのさ。ガケの先端に腰かけて飲むお茶は最高だよ、少々危険だけれどな。それから、「ヤッホー」って叫ぶ合間にかじるノリおにぎりの味も、最高だったね。
そう、そのスナップ、断崖の上で撮ったヤツさ。あいにくひどい逆光だけどね…実際ひどいなこりゃ、何一ツ見えやしないな。まァ、とにかくいい眺めなのさ。
空っぽになった水筒を下げて断崖を後にすると、わき水がわいている場所に差し掛かる。それは信じられないぐらい美味い水なんだ。そのわき水の傍にあるのが、そのでかい木さ、そう、二五のおれがいっしょに写ってるーーそうその木だ。」
こんなにもしゃべりまくるリョウやんを見たのは初めてだった。僕とジョウジはカニカマを食べる手も止めて、呆気に取られてリョウやんを見つめていた。リョウやんは言葉を切った。顔が少し上気していた。
「でも今、そんなものは全部なくなっちまった」とリョウやんは続けた。「俺もあんたらも、これから先、そこへ写っている木を見ることは絶対に有り得ないんだ。そして、あんたらは落穂山を知らないままに、一生を終えちまうんだ。哀しいことだが、そうなんだ」
一息で言ってから、リョウやんは照れかくしで、苦笑いになってない苦笑いをしつつ、カウンターを雑巾で磨きながら言った。
「へへ。どうしちまったんだろ、俺。・・・・・・もう一本いくか、ビール?」

♪♪♪

ナナちゃんの家は切り崩した山のてっぺん近く、つまり落穂台の端のあたりに建っている。割と坂道が急で、たどりつくのに苦労する。家の裏手には、少しだけ木立が残っている。しかしそこもいつ更地にされて家が建つかわからない。
「ふぅ、ふぅ、はふぅ。」とここなが少し息を乱れさせながら僕の横を歩いている。「何べん通ってもこの道は急だよ」
「少し休みながら行くか」
「いや、いいよ。全然大丈夫」そして、ここなは額にはりついたほつれ毛を耳の後へまわした。
落穂台の真ん中を通っている坂道(つまり今こうして僕とここなが上がっている道)はきちんと舗装され、なるべく通行人が楽に登れるようにとの配慮からかなめらかなカーブを描いて続いている。そのカーブしていく道に沿って、街灯と街路樹が等間隔で並んでいる。
「木を切った後で、木を植える」僕はある時、この坂を上りながらそんな文句を思い浮かべた。「そしてその木は排気ガスで喘息気味だ」
唸るようなエンジン音を響かせて、車が僕等を追いこして行った。自転車に乗ったこどもらが、キャアキャアと歓声を張り上げながら、ものすごいスピードで僕等とすれ違った。
「危ないな」僕はふり返って、こどもらを見送りながら言った。
「でも、坂道を自転車で滑り降りるのって、とっても気持ちいいのよね」とここなが笑って言った。「魔法にかかったみたいにスピード出て」
そう、実際、魔法のようにスピードが出るんだよな、あれは。

同一の形状をした立方体の家が、いくつもいくつも連なっている。
「な、だ、らー、か、なー、さー、かみち、をー、くるま、がー、はしってゆ・・・くー、さかのぉー、うえには、わたしの・・・・・・・いえが、あるぅー。」
ここなが六文銭の曲を歌っている。だが、息が途切れ途切れなのでメロディーもリズムもあったものではない。その上、時おりとんでもない所で歌を中断し、つばを飲みこんで苦し気にため息をついて、そしてまたぞろ歌い出したりするので、聞いている僕まで息切れがしてきた。

さて、ナナちゃんの家へたどりつくと、いつも犬のジンキチが「ばう、ばう」と吠えているのが聞こえてくる。
「私の高一の時のクラスメイトにね、ハママツジンキチ君ってのがいてね」と、ナナちゃんがいつかその犬の名前の由来を語っていた。
「この犬、彼に瓜二つなんですヨ!もうペットショップで見かけた時に思わず『アッ、ハママツ君ッ!』て叫びそうになったくらいで。だからもうこれ以上にぴったりな名前はないって確信して、ジンキチと命名したんですヨ」とのこと。
「ばうばうばう」
ジンキチの呼ぶ声が聞こえる。今日は少しばかり、ご機嫌ななめのようだ。ナナちゃん、エサをやり忘れでもしているんじゃなかろうか・・・・・・と思っていたところに、ナナちゃんが出て来た。
ナナちゃんは手を振りながら、ここなに駆け寄った。
「おォ、ナナ」
「おォ、ここ」と二人は再会を喜び合い、お互いの肩を「ぱたぱた」とたたき合っていた。ジンキチは鳴き疲れたのか、黙りこんでしまった。ナナちゃんはひとしきり「ぱたぱた」をやった後、僕の方を向いて、「あ、どうも、こんにちわ」と言った。僕は慌てて「あ、こちらこそ、お久しぶりです」と少し調子っぱずれな声で挨拶を返した。ここなは、超然と「ぱたぱた」を続行していた。
ジンキチは庭石の上でフテブテしく丸くなっていた。「よう、ジンキチ」と僕が言うと、耳をピンと立ててみせた。寒風がジンキチの耳に吹き付けている。
「コラ、ジンキチ、ちゃんとご挨拶しなさい」と後ろからナナちゃんが言った。しかし本当にジンキチが「ちゃんとご挨拶」しだしたら僕は戸惑っちまうと思うなァ、ジンキチにお茶を出されたり名刺もらったりしたらどうすりゃいいんだろう、と思っていると、ジンキチはのっそりと起き上がり「ばうぉーん」と遠吠えした。そしてジンキチはお茶も名刺も出さないうちに再びゴロンと寝転がり、昼寝のつづきをやり出した。
僕は「犬ってやつはいいな」と思った。

♪♪♪

僕はひとさまの家で頂くお茶をとても美味しく頂く性分だ。今もこうして、ナナちゃんがいれてくれたアプリコットティーを幸せな気分で飲んでいる。
ここで是非とも言っておかなくてはならないことは、僕はさほどアプリコットティーが好きではない、ということだ。たとえばお中元や何かで「高級アプリコットティー・セット」なんて代物をもらっても、「あァ…」などとつぶやいて頭をかきかき、お隣のカワムラさんにあげてしまう。しかし、それにも関らず今の僕はこうしてアプリコットティーを楽しく飲んでいるのだ。けっこうイケるな、なんて胸のうちで舌鼓を一ツ打って。テーブルの中央には、ナナちゃん手作りのバタークッキーが皿にもられている。その横には、ここながいつかナナちゃんにプレゼントしたという、ハニワの形の貯金箱が置いてある。
ひだまりの中。

「・・・でさ、最近忙しいんだって、ミキちゃん」とナナちゃんが話している。
ミキちゃんというのはナナちゃんとここなの共通の友達で、サッパリした美人の女の子だ。このミキちゃんはダンサーなのだが、最近は阿波踊りをディスコっぽくアレンジするというプロジェクトをやっているのだという。
「阿波踊りのディスコーバージョン!」僕は少々おどろいて言った。
「そう。♪同じアホなら踊らにゃソンソン、って、こんな風に両手をヒラヒラさせて」とナナちゃんは実演してみせ、それが自分でもおかしくなったらしく吹き出した。そして「でもミキちゃんが演ったらカッコイイんですよ!」とつけ加えた。
「そうそう、ミキちゃんはカッコイイ」ここなもそう呟いて、クッキーをアプリコットにひたした。「ほんとうにかっこいいひとだよ」
ジンキチが「ばうばう」と吠えた。
それから話は飛んで、ナナちゃんの彼氏の話になった。ナナちゃんの彼氏は今トーキョーに住んでいて、いわゆる遠距離恋愛である。背が高くてサッカーがうまい。その上女にもてる。口惜しいけれども背が高くてサッカーがうまくてもてる男にはいい奴が多く、ナナちゃんの彼氏もその内の一人である。マクドナルドへ行ったらナゲットをさり気なくおごってくれるような人である。
「ちょっと心配でさ」その彼氏の話で盛り上がっている最中に、ふと声のトーンを変えて、ナナちゃんはクッキーをひとつつまんだ。
「なに?」とここな。
「なんていうかね、もし尚樹(これがその、背が高くてサッカーがうまくてその上女にもてるナナちゃんの彼氏の御名前だ)がさ、トーキョーでさ、私よりもっといい女の子と出会ってさ、それっ切り帰って来なかったらとかさ」
そしてクッキーをくわえたまま僕の方をむいて、「へへっ」と笑った。
「でもそういう心配するってことは、私が尚樹のこと信じてないってことになりますよね。いかんいかん、尚樹はそんな浮気な男じゃなイッ」そして、「ははは」と笑って、もうひとつナッツ入りのクッキーをつまみ上げた。
冗談めかしてるけれども、本気で彼女が心配しているということは痛いほどに伝わって来た。ジンキチが「ばうばう」と吠えて、ここながティースプーンを置いた「かちゃり」という音がひだまりの中に響いた。
「なんでこんな心配しちゃったかっていうと私の方に、悪いところがあるからで」ナナちゃんが続けた。
「街歩いている時、チョットいいなッて感じの男の子に声かけられるとホイホイついて行っちゃうのよね、私。尚樹は私がそんなことしてるって、全然知らない。信じてくれてるからさ、私のこと。
私、いやな奴だよね。そいで、彼氏の浮気を疑ってるなんて最低よね。私がそんな浮気者だからこそ、一層尚樹が浮気してないか、私みたいに浮気してないか、すごく気になっちゃうんだろうね。
それってすごいエゴだよね。
私、ホント最低だよ。自分の甘えも捨てられないでいて、他人のやましさを勝手にうたぐってるなんてさ、もし尚樹が浮気してても何も言えないよ。尚樹に捨てられちゃっても何も言えないよ。私、ホントに最低だよ。」
ナナちゃんは一息でそれだけしゃべり終えると、ぐっと詰まった。そして、僕の方を見て「へへへ」と笑った。目が、うるんでいた。
僕がいたら思うようにしゃべれないことも多くあるだろう。そう思って「ちょっと僕、ジンキチと散歩して来るよ」
僕は、アプリコットティーの入ったカップをことりとテーブルの上へ置き、腰を上げた。
「ばうばう」ジンキチの声が、少しだけ大きくなった。

♪♪♪

ジンキチは最初「ばうばうばう」とさかんに鳴きながら辺りを跳びはね回っていたが、今では落ち着いて歩みを進めている。
近くの駅に電気を送るため、街の真ん中に整列した何本もの鉄塔が高圧電線を支えていた。その送電線の真下にも家が建っていて、僕は「大丈夫なのかなァ、ここに住んでる人たち」と思った。
高台で、木の残っている所は木もれ陽が満ちあふれていた。僕が知らない失われた時代には、木もれ陽がここら辺中を満たしていたのだろうか。永久不変なものなどないことも、過ぎ去った時代に執着することがナンセンスであることも、僕は知っている。知っているのだけれども、取り残して来たもの中に、たくさんの素晴らしいものがうずまったままになっていることも判っている。
ここら一帯の木もれ陽も何処かにうずまったままで、僕の手は届かない。
ジンキチが歩みを速めた。さっき猛スピードですれ違って行ったこどもたちが、自転車をこぎながら坂をのぼって来た。変速機を一段にしている子はさかんに足を動かし、六段にしている子は立ちこぎのままハンドルをフラフラさせていた。
この子らが大人になる頃は、と、僕は、そうやって顔をマッカにして走って来るこどもたちを見ながらふと思った。この子らが大人になる頃は、(そういう言い方はあんまり好きではないのだけれども)と僕は独りごちた。金と家があれば幸せになれた時代は、終わっちまっているんだろうな。金と家があれば幸せになるという価値観は、粉々になっちまっているんだろうな。そして彼等は、ほんとうの幸せをつかむ必要に直面するんだろう。幸せは経済と物質によって自動的にはじき出されるものじゃない。でも長らく人間は、経済と物質で幸せをはじき出そうとして来た。
僕はこどもたちの幸せを願った。
そしてついでに、ナナちゃんの幸せも願った。
ナナちゃん、思いっきりしゃべって、思いっきり泣けたかな。
ジンキチが「ばうばう」と吠えた。少し古びてひび割れたアスファルトにさしこんでいる春めいた陽の光。いつかリョウやんが毎年歩いていたのは、どのあたりだったのかなと思いながら、「帰ろう、ジンキチ」と、綱をひっぱった。
車が走り抜けて行き、巻き起こった風が街路樹がかさかさとゆらしていた。

♪♪♪

「大丈夫?」
帰り道、ここなの目が赤くなっていたので、そう尋ねた。
「ちょっと、もらい泣きしてさ」ここなはそう答えて、僕の手を握った。

♪♪♪

二五歳のリョウやんは道を歩いていた。一歩一歩、靴底と青草が擦れ合う音を聞きながら歩いていた。時おり、首にかけた蛍光色のタオルで汗をぬぐった。リュックサックの横に差したペットボトルの底を太陽にかざした。夏だった。太陽の光が物憂気な夏だった。
彼が歩いているのは、今まで何度となく歩いた道だった。千年前から毎年この道を歩いていたように感じた。実際彼の中を流れていた時間は千年もの重みをしょっていただろう。そして、リョウやんの心はからっぽの空き缶のようだった。
千年の歴史が突然断ち切られ、世界が消えようとしていたから。
階段のかわりに置かれた丸太、木もれ陽にぬり上げられた小川、タヌキの住んでいるヤブ、そういったものたちに向けてシャッターを切りつつ歩いた。しかしいくらシャッターを切ったところで、その世界の毛の先すらつなぎとめてはいられないことぐらい、リョウやんは知っていた、だから味わうようにそれを目で見た。シャッターは信じていなかった。
湧き水で顔を洗った。まったくうまい水だよ、とリョウやんは不景気に胸のうちでつぶやき、そのつぶやきは彼の中でこだました。水道水なんてこれと並べてみりゃ、人間が飲むものじゃないことが一目瞭然だ。実にそれはすばらしい水だった。こんなにすてきなものがあること、そしてこんなにすてきなものが失くなっちまうことが、まったく信じられぬことだった。
どんなに汚い人間と汚い事柄が世界にあふれていても、山の奥にはこんなに綺麗な水があるんだ。それはリョウやんを支えていた哲学だった。どこへ消えちまうんだろう、リョウやんは流れている水を眺めながら思った。好きな女の子が死んだ時もこんな風に感じるんだろうな、「どこへ消えちまったんだろう」
そして、あの大きな木の下にたどりついた。あァ。リョウやんはつぶやいた、根元から目を上げていって、幹をたどり、枝をたどり、葉っぱの先まで行って、目をとじた。目を開いて、葉っぱから枝、幹、そして根元まで戻った。木もれ陽がそこら中に散らかっていた。
ハハ、やっぱりでっけぇよ。リョウやんはそうつぶやいた。大した木だよあんた。そうつぶやいた。ほんとでっけぇよ。そう、つぶやいた。
木の影からひょっこりと、一人のじいさんが出て来た。じいさんは「おや」という顔付きを一瞬見せた後で、「こんにちわ」と言った。「こんにちわ」とジョウジも言った。
「この山へ登りに来られたんですか」とじいさんが問うた。
「ええ。」
「いい山ですもんね」じいさんはジョウジの手にしているインスタントカメラに目を転じた。「一枚、とってあげましょう。この木の横へ」とじいさんは手をさしのべた。
「はい、チーズ」
カシャリ
小さな音が小鳥の声といっしょに木立の中へこだまして、不景気そうなリョウやんと大きな木が、フィルムの上に焼きついた。
「悲しいですね」カメラを返す時、じいさんはそうつぶやいた。まったくそうですよ、とリョウやんは独りごちた。

断崖に立って、稲刈市を見渡した。こんなにきれいな景色、とリョウやんはつぶやいた。こんなにきれいな景色が存在している。でも、それはもうすぐなくなっちまうんだ。こんなに確かに存在しているものが、なくなっちまうんだ。そう、なくなっちまうんだ。
コツンと、肘に何か硬質な物体がぶつかった。目をやると、リュックサックの一部が不恰好にふくらんでいた。
開けてみると、小学校の頃に失くしたハーモニカが出て来た。
あぁ、昔なくしたハーモニカじゃないか。こんなところに入ってたのかァ、とリョウやんはその日初めて笑顔を見せた。俺はこのハーモニカをこのカバンのポケットへ入れたまま忘れちまってたんだ。そしてそれから何年も経った今、ようやっとその存在に気づけたんだ。
その時、リョウやんは、この一個のハーモニカを介して「かつての自分」と「今の自分」がつながったと感じた。ハーモニカのひんやりとした手ざわりが糊しろになって、彼の歴史がひとつの輪になった、と思った。
そうか、そういうことか、思わずリョウやんは笑い出しそうになった。いつかは知らないけれども、今こうしてこの断崖に立っているおれと、遠い将来のおれが、こんな風につながれる日が、きっとやって来るんだ、そうリョウやんは確信した。いつになるかはわからないけど、きっとやって来るんだ。そう思った。
悲しいことにかわりはない、やる瀬なさにかわりはない。でも、その日を待つのは悪いことじゃない。そう感じた。
そして青年は、眼下に広がる古ぼけた街並みに向かってハーモニカを吹いた。

「リョウやん、その時泣いた?」
答えは判りきっていたけど、僕は尋ねた。
「泣くもんか」とリョウやんは答えた。「ただ、ハーモニカ吹いただけさ」

そう、ただ、ハーモニカ吹いただけ。

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