(153) 印度學佛教学研究第48巻第2号 平成12年3月捨身と生命倫理
岡 田 真 美 子
1. はじめに ― いま再び仏教の生命倫理を問う意義1.1 平成11(1999)年3月1日、日本で初めての脳死臓器提供による移植手術
が無事終了した。衆参両院で臓器移植法が成立してから2年、衆議院の内閣委員
会で「臨時脳死及び臓器移植調査会」設置法が可決されてからは既に10年の歳月が
流れていた。1)この記念すべき年に、印仏学会学術大会の特別部会が生命倫理をテーマとした
ことは実に意義深いことであるといえる。かつて印仏学会は、脳死臨調が初会合
をもった年に、「脳死・臓器移植問題および生命倫理」報告(1990)を発表した。2) そ
れから9年が経ち、実際に脳死による臓器移植が行われるようになった現在、も
う一度仏教の生命倫理を問い直してみる時期にさし掛かっていると考えられるか
らである。1.2本稿における生命倫理観 生命倫理bioethicsという術語は意外に新しく、
1971年の Van Rensselaer POTTERの書名として登場したのが初めである。そこで
POTTERは地球環境の危機を克服して人類が生き残るための科学を標榜した。3) つ
まり生命倫理は地球環境倫理として出発したのであった。その後、生命倫理と環
境倫理の主張は必ずしも一致せず、対立することが指摘されることもあった。し
かし、実際は、環境という要因を無視した生命倫理は、成立し得ない.4) 本稿は,その
ようなPOTTER的な生命倫理観に基づき、仏教において、人間の生命とその環境
の関わりがどのように考えられているのかということを、捨身譚を手がかりに考
察するものである。2. 仏教の生命観に関して
2.1 命は誰のもの?「いのちは誰のものか?」という問いかけがある。「自
分のいのちは自分のもの」という現代日本人の常識は危険であると言われる。5)-1000-
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これに更に、「全てのいのちは、ほとけさまのもの」であり、さらに、「ほとけさ
まが決めて下さった寿命がくると、わたしたちはほとけの国、お浄土に帰る」6) と
いう主張が続く。しかし、ここで言われる「ほとけ」とゴータマが唱えた覚者としての「ほとけ」
の間には大きな隔たりがある。全てのいのちの長さを決め、我が物として管理し
ている「ほとけ」とは一体如何なるものなのであろうか? そういう「ほとけ」が
住み、いのちを召し上げられた死者が赴くといわれる国「お浄土」とは、どこに
あって、どんなものなのだろう。また、いのちを無くし、身体も滅びたものは、
どんな存在となってその国に赴くのだろう。残念ながらこれらの問いには、仏教
が尊ぶ「智慧」をもっては答えることが出来ない。ただ、そう主張する人々が、
いのちの仕組みはそうなっていると信じているのみである。したがって、この主
張は筆者を満足させえない。2.2 仏教の生命観 一方キリスト教は、生命が神に委ねられていて、決して人の
計らいで生き死にを左右することは許されない。十戒の「汝殺す勿れ」の持つ意
味は大変に重い。「仏教の」「仏教は」と語ることは、いつも危険を孕んでいる。その長い歴史的
変遷の故のみならず、仏教最初期から、誰に対して説かれたかによって、教説の内
容が一様ではないからである。7) 殺生および安楽死をも場合によっては容認する要
因が、初期仏教以来内包されていたと言う研究がある。8)また諸々の理由で自殺を
望む比丘に対して寛大な態度を示した記述も経典中に見られる。9) むしろ積極的に
生存への意欲をコントロールせんとしている姿勢が強い。 10) 身命を惜しまぬ菩薩
達の存在は、ひとり大乗仏教の生み出したものではなく、仏教一般に潜在してい
るこのようなニヒリスティックな生命観に根差しているものであるといえよう。3. 捨身
生命倫理に関連して捨身に言及した研究を読む時、しばしば違和感を覚える。
例えば、「捨身ということは、自らの命をかけて仏道を求め、仏道の為に自らの身
命をも捨てるということである。仏道の為という目的のない捨身は単なる自殺で
しかない」11) の如き捨身定義に対する違和感である。その原因は、「捨身」が一義
的な概念ではないことにあるらしい。そこで筆者は、知り得る限りの捨身譚を再検討して、それらを捨身の動機から
次の三つの系統に分類し、それぞれのタイプに《 》の名称を与えた:-999-
@ 身命を他に与える--------------《救難捨身》例 投身餓虎、シビ王などこれらのうちABは、上にあげた捨身定義に当てはまる。しかし@のタイプの
A 教えを求めて身命を捨てる-------《求法捨身》例 雪山童子、金堅王など
B 仏の供養のために身命を捧げる--《供養捨身》例 一切衆生喜見菩薩など
捨身は必ずしもこの定義に一致しない。そして実は、この3つの系統のうち一番
多く見られる捨身譚は@に属すものなのである。この@のタイプの捨身譚のうち、多く見られるものは、次の2種類である:
@-A 飢えから救う 〈救飢捨身〉それぞれの例として、大乘的本生話の集大成であるRast.rapalapariprccha(以下
A-B 病から救う 〈薬施捨身〉
RP)前生50話 中に見られるものをあげてみよう。@-A 例 [4]投身餓虎 [30]銀色女 [33]トカゲ13)[41]亀 14) [42]魚15) [47]兎ここにおいて、捨身の主人公は、自らの仏道修行のためというよりは、衆生の
A-B 例 [24]Sarvadars'in 16) [25]Kusuma王 [29]Jnanavati王女17)[43]Soma蟲 18)
保護のため、あるいは相手の求めに応じて、自分の身を食用・薬用に供している。50話中捨身譚は22話あり、そのうちAとBに属すものが一つずつある。19) 残る
20話が@に属す捨身譚で、その半数が救飢・薬施捨身譚というわけである。20)これはRPだけに見られる傾向ではなく、捨身説話全体に言えることである。つ
まり、圧倒的に多くの捨身は、残された説話文献を見る限り、法を求める/仏を
供養するという仏道修行―自利的行為―として行われるより、むしろ、世間の衆
生に対する慈悲心―環境に対する配慮からなされたものであった。4. 身施のレシピエント
今更ながら驚嘆することに、この捨身は、受け手の質を云々していないのであ
る。病比丘に対して腿肉を捧げたり(RP29)、飢えたムニに身肉を捧げた(RP47)
という納得のゆく受け手を想定した説話は、意外に少数派である。それどころか、
菩薩は、次のような受け手にこそ、惜しみなく布施し、身命を与えているのである:トラ (RP4等の投身餓虎)、-998-
羅刹 (RP13等の月光王の頭施本生)、
飢えて我が子を食べようとした人 (RP30等の銀色女本生) 21)
自分を殺そうとした猟師 (RP35サル本生,38六牙白象本生,44獅子本生)
忘恩の人 (RP32知恩王子,37熊本生,40九色鹿本生,41亀本生)
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なんと、10話までがこのような受け手である。また、そのいずれもが他の経典に
複数のパラレル話を持つ有名説話である。捨身譚には、立派な相手を選んで布施
するように、と説かれることはない。悪人であれ、けものであれ、鬼であれ、い
かなるものであろうが、相手が難儀をしており、自らの身命をもってそのものを
救うことが出来るのであれば、惜しみなく我が身を与える、それが捨身なのである。従って、そこにはもはや「三輪清浄」にたいする拘りはない。受け手が清らか
であろうがなかろうが問題にならないのである。そのような布施に対して、別の
立場から批判を行なうことは自由である。しかし、夥しい数の捨身説話がこのよ
うな立場を取っていることは、充分認識しておくべきであろう。5.臓器提供を巡って22)
臓器移植に関する仏教界の見解を通観する時、我々の目を引くのは、レシピエ
ント(臓器移植を受ける人)に対する厳しい批判である。その批判の要旨は、「臓器
提供まで受けて延命しようというのは、生命に対する執着である」ということに
なろう。そのような執着は不浄であるので、布施行は成立しない、とも言われた。23)
仏教者はそういう煩悩を捨てて、慫慂として死に就くべしというわけである。確かに、執着を離れる、なかんずく生への意欲を抑止するということは、2.2で
述べたように、あらゆる時代の仏教に潜在する重要な考え方である。従って、
仏教者を自認する、それら批判者はその心掛けで最期を迎えればよいと思う。よ
し、そう主張する人たちが瀕死となって、臓器提供を受ければ救命できるという
場面になってそれを勧められても、「この臓器は他のかたに回してあげて下さい」
というのであれば、これまた立派な捨身である。しかし、全てのレシピエントが仏教者であるわけではない。自分が仏教者とし
て、慫慂として死に就くことは一向に構わないが、それを世間一般に対して強い
るのはどうであろうか。むしろ問題とすべきは、仏教者の自分はドナーとなるの
か、なるなら如何なるドナーとなるのか、ということであろう。この問題は常に、
自分がどう行動するか(メア・レス・アギトール)ということに終始するのである。6. おわりに
冒頭に述べた印仏学会の臓器移植に対する委員会見解が出された時から9年が
経ち、諸々の変化があった。ついに1999年日本において我々は、現実に臓器がリ-997-
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レーされるところを見、瀕死の重症患者がそれを受け取って元気に回復して行く
さまを、目の当たりにすることになった。もはや一般論では語れない時が来たの
である。臓器を待ち受けていたあのレシピエントに向って、なお「他人の臓器を
欲しがるな。それは貪欲と言うものだ 」と言うことができたであろうか?9年前にも、前田惠學臓器移植問題検討委員会委員長はこう述べていた:
「ただ、仏教者の中には、事情がいかなるものであるにせよ、現実に病苦の中で臓器を求め上で再検討した捨身の伝統を鑑みる時、捨身を論じた他の人々に比べ、この見
ている人がある以上、いつか自分の臓器が役に立つ時があるならば、喜んで臓器を提供し
たいと言う人もあるであろう。そうした事実があれば、われわれは当然その意志を尊重す
べきであると考える」24)
解の優れていたことを我々は知る。当時は、しかし、このドナー側にたった見解
は主流にはなり得ず、レシピエントに対しひたすら臨終正念を説く大勢のなかに
埋没してしまったという印象がある。仏教者は、2.2で述べたごとく、リゴリストではない。仏教は当初から常に、現
実の問題にどう向き合うかを問われ、それぞれの時間的空間的環境に応じて変容
してきた。それが仏教の持つ歴史である。今またそれに新しい項が書き加えられ
ようとしている。いずれは医学の進歩とともに脳死も臓器移植も問題にならない
日が来るかもしれないが、それまでは、上記のような捨身の伝統を踏む仏教者ド
ナーが存在していいと筆者は考えるのである。 (文中敬称略)
__________________1. この一連の流れに関しては、非常に詳細かつ見通しよく纏められた次の文献を利用さ
せて頂いた:正木晴彦(1999)「資料『生と死を巡る環境』―生命観はこの4半世紀でど
う変わったか―」『長崎大学総合環境研究』 第1巻第2号 pp.97-1512 『印度學佛教學研究』第三十九卷第一號(以下『印佛研』(1990))pp.291-355
3 土屋 貴志「「bioethics」から「生命倫理学へ」―米国におけるbioethicsの成立と日
本への導入―」p.14 加藤 尚武 加茂 直樹 編 (1998)『生命倫理学を学ぶ人のた
めに』(世界思想社)所収4 加茂直樹「生命倫理学の現状と課題」 ibid.p.345
5 ひろさちや「いのちは誰のものか?―現代医学の誤りについて―」『季刊 仏教 no.
43』 1998年4月号(法藏館1998)。p.163 同様のものに、例えば、中野東禅「脳死・
移植医療・生命倫理における『解脱』」『印佛研』(1990)p.313:「「仏のいのち」とい
うのは、仏のいのちと認めることによって自己に仏のいのちが実現することだというこ
とになる」;ここでいわれる「ほとけ」と我々の関係は、むしろ梵我一如思想やキリスト教
の神観念に近似している。 6. ibid. p.171-996-
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7 例えば宮元啓一(1995)『仏教誕生』(筑摩書房)p.124彼はゴータマ自身(経験論と
ニヒリズムに裏打ちされた)プラグマティストであると言う。8 杉本卓洲(1999)『五戒の周辺―インド的生のダイナミズム』p.68;第1−2章には、
殺生・安楽死・自殺をめぐる生命倫理についての綿密な論考がある。 9. ibid. p.10510 宮元啓一はこれを「生のニヒリズム」と呼んだ。宮元 ibid.pp.146ff
11 小川一乗「脳死・臓器移植についての一仏教徒の視点」『印佛研』(1990). p.343
12 cf. 拙稿(1991)「Rastrapalapariprccha中の釋尊前世50話」『前田専学博士還暦記念論
集〈我〉の思想』春秋社pp.581-59613 cf.拙稿(1992)「龍本生(1)救虫捨身譚―RP[33]話の新出並行話」『印佛研』41卷
1號 pp.464-468);拙稿(1993)「龍本生(2) 救飢捨身譚と龍肉食説話 ―根本説一切有
部藥事を中心に」『神戸女子大学(文学部)紀要』26巻pp.157-16814 cf. 拙稿(1994)「Karmasatakaにおける2つの「救蟻捨身譚」―「亀本生」と「トカゲ本
生」『神戸女子大学教育学科研究会(教育諸学論文集)』第8巻pp.53-6515 cf.拙稿(1992)「薬施捨身説話(2)―Rohita(赤)魚本生と魚本生」『神戸女子大学教
育学科研究会(教育諸学論文集)』第6巻pp.72-75及びp.7916 cf.拙稿(1995)「血の布施物語(2)Sarva[-artha-]darsin伝説」『神戸女子大学(文
学部)紀要』28巻pp.119-13617 cf.拙稿(1993)「薬施捨身説話(3)薬用人肉食の問題―Rastrapalapariprccha前生話第
29の並行話―」『印佛研』第42卷1號pp.503-50718 cf.拙稿(1991)「Mahajjatakamala第8章Soma本生―薬施捨身説話」『印佛研』第40
卷第1號pp.448-452;拙稿(1992)「薬施捨身説話(1)―Soma薬身本生」『神戸女子
大学(文学部)紀要』25巻pp.119-13619 Aは[3]の雪山童子 Bは[12]Vimalatejas王子譚である。
20 残る10話は次の通り:〈その他種々〉 [7]Sarvamdada王 救貧 [8](シビ)王 (保護) [9]
Kesarin王(薬)[26]Arthasiddhi王(救難) [35]サル(救護);〈衆生のため〉:[21]
Kancanavarna(指)?[22]Utpalanetra(目) [27] Asuketu王(世間のために菩提を求め
て 両掌を);〈理由不明〉 [13]Candraprabha王 (頭) [17]Dhr.mat王(手)21 但し自らの子を食べることに関しては、現代とは違い、緊急避難的処理として認め
られている場合がある。(「子の肉の喩」と「善生太子本生」に関しては稿を改めて論じ
る用意がある。)22 脳死による臓器提供と生身の「捨身」を相違するものとする見解もあるが、自らの
身体の提供を意志するという点で筆者は同列に扱う。捨身は難行ゆえに尊いのではな
く、自身を他の衆生の救済に供するがゆえに貴重である。23 前田惠學「委員長覚書」『印佛研』(1990)p.299
24 ひろさちやibid.p.170 25 「委員長覚書」p.299
〈キーワード〉 捨身、臓器移植、生命倫理、『護國尊者所問經』
( 姫路工業大学教授,Dr. Phil. Bonn )
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