姫路工業大学環境人間学部 研究報告第1号(1999年)
仏教における環境観の変容 岡田 真美子 文化環境大講座 Die Veraenderung der Umweltanschauung im Buddhismus Mamiko OKADA Abteilung der Kulturumweltforschung, Oekoanthoropologische Fakultaet, Techinische Universitaet Himeji 1-1-12 Shinzaike-honmachi, Himeji-shi, Hyogo-ken, 670-0092 Japan Zusammenfassung:
Hier stelle ich Betrachtungen darueber an, was fuer ein Paradigma der Buddhismus der Umwelt angepasst hat, und wie dieses Oekoparadigma sich entfalten hat.
Im Buddhismus seien Planzen im allgemeinen fuer selbstunbewegt, stumm und unbewusst gehalten. Warscheinlich koennten wir erst dann ruhig Planzen und Getreide essen, Waelder abholzen. Aber im frueheren Buddhismus und Theravada-Buddhismus wurden Planzen lebend gefunden und hatten doch mindestens ein Tastorgan (ekendriya).
Merkenswert ist es, dass nur Palijataka die frueheren Geburtsgeschichten Buddhas als eine Baumgottheit
(rukkha-devata-jataka) und davon finden wir 3 besonders kostbare devatas , die als die Seele eines Baumes behandelt sind(J.412,465,475). Die sind damit sehr wichtig , dass sie in den anderen Leben als Gotama Buddha geboren sind. Was Mahayanabuddhismus angeht, uebten Saddharmapundarikasutra und Surangasutra grossen Ein- fluss auf die Idee 草木國土成佛 in der chinesischen und japanischen天台Schule aus. Die beiden Sutras betrachten Planzen als Lebewesen wie Menschen.keywords:Buddhist Literature, Ecoparadigm, Plant, Jataka, Saddharmapundarikasutra
サレバ草木瓦礫 山河大地 大海虚空
皆是レ眞如ナレバ 佛ニアラザル物ナシ『眞如觀』
はじめに ― インド学仏教学における環境研究
1990年「花と緑の博覧会」の会場で、「仏教と自然」と銘打たれた国際シンポジウムが開かれた。その際
基調 講演(注1) をおこなったのが、環境問題に詳しいHamburg大学教授Lambert SCHMITHAUSEN博士で
あった。
彼は 日本でもよくしられた仏教学者で、同大学のインドチベット文化歴史研究所(Institut fuer Kultur und Geschichte Indiens und Tibets)に属している。
この時以来、我が国のインド学・仏教学関係の研究者の間に「仏教と環境」の問題に対する興味が増大した。1998年3月、三菱財団助成研究「宗教と環境問題」の研究成果の一部として 国際仏教学大学院大学学長
原 實教授の「不殺生考」が発表された。(注2)これは、我が国の仏教学が『生命倫理』『環境問題』を論じるに当たって、古典文献学の手法を用いた最初
の論文として、決定的な意義を持つ。機は次第に熟し、同年9月インド学仏教学会は第49回学術大会において、はじめて特別部会「環境倫理と仏教」 を設けた。そこでは、筆者の「仏教説話におけるエコパラダイム」 (注3) を含めて15の研究発表が行なわ
れた。インド学仏教学において、現代的課題である「環境問題」に取り組む学問的方法論の確立をみるのは少し先のことであるとしても、このように着実に「環境研究」が根を下ろしつつあると言えよう。
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この論文において明らかにすること
日常的に、また、仏教一般の通念として環境世界にある存在―動物や植物や土石その他―をどのような枠組みで捉えているか、それがどのような歴史的展開を遂げてきたのかを考察する。
1.エコパラダイム ―環境世界に存在するものの枠組みについて
1.1 客観科学の一般常識
アフォーダンス理論の創始者James Jerome GIBSONは1979年、彼の学問が扱う「環境」(environment)を、「知覚し行動する生活体、すなわち動物の周囲の世界を指している」とし、続いてこう述べた:「植物も生活体だが、感覚器官や筋組織を持たず、…動き回ったり、行動することはなく、また神経組織を欠いており、したがって感覚がない」 (注4)1.2 仏教においても、草木は、「非情(心・意識なきもの)」に分類され、非生物として (注5)(ないしはそれと同等に)扱われるのが一般的である。1.3 古代インド/叙事詩の世界
しかし、既にSchmithausenや原が指摘したように、古代インドでは植物も五根(5つの感覚器官)を備えていると考えられていた。 (注6)1.4 初期仏教においては、草木が生きものであるとされていた証拠がある。 (注7)
1.5 ジャータカの中には、それを窺わせる形跡がある。筆者は樹木神が後世仏に生まれ変わる話(樹神本生)を34編見出した。しかもこれらはすべてパーリジャータカ中に発見されたものである。
1.6 樹神本生とそれ以外の樹神説話の違い
ここで、強調しておきたいのは、仏の前生である樹神の説話(樹神本生)とそうでない樹神説話を混同してはならないことである。「その樹神はこの私であった」の一文がついているもののみが樹神本生である。それがない、他の説話の樹神は 樹木とは独立した単なる精霊にすぎない。1.7 草木本生はない
さすがに草木そのものが仏の前世であったとする説話は、現在までのところ、如何なる経典中にも見出していない。パーリジャータカは、樹木の魂としての樹神がやがて転生して仏に生まれ変わるということで、草木と人と仏を同一次元においているのである。草木を仏の前世の存在(仏本生)に仕立てるカラクリについては既に前述の論文で言及した。 (注8)1.8 樹木神に対する従来の説
従来 樹木神は草木とは別個の存在であって、樹木から別の樹木に自由に移動できるものと見られてきた。樹神が 緊密に樹木に結び付いているものは むしろ例外とされ、SchmithausenもJ465 Bhaddasalajatakaをあげているだけである。 (注9) しかし、樹神が草木と別個の精霊であるとするなら、草木と仏を結びつけるものは全く存在しなくなる。1.9 更に2つの重要樹神本生の発見
今回の調査で、さらに2つの「樹神が緊密に樹木に結び付いている樹神本生」を発見したことをここに報告しておく。 (注10)1.10 部派仏教時代 ― 草木は一根の生物
部派仏教の時代、植物は、なお無感覚であるとは見なされず、触覚のみある「一根」の生きものとされていた。 (注11)1.11 大乗仏教
それが大乗仏教になって、草木は「如草木瓦石影像 無覺無知」(注12) のように、瓦石と並べられて、無機物の扱いを受けるようになるのである。
Schmithausenが、仏教においては「植物をも含めた環境への関心が見られることは、きわめて例外的であると思われる」と述べているのは、このような状況のことであると思われる。(注13)1.12 非生命体
我々が生命体であると認めている植物すらこういう扱いを受けている以上、非生命体であるとされる瓦石・山川・国土の類は環境にあって、主体にはなりえず、完全に背景の一部を構成する「大道具」「小道具」である。1.13 このように、大乘では環境に存在するものの枠組み(エコパラダイム)は一般に、動物と、そのまわりにあるものに分けられるようになった。
2. なぜ植物を「非情」(無感覚なもの)としたり、無生物のパラダイムに入れたりするのか?
2.1 《食料は「生きもの」である》
原則として、生きものは生きものを食べて生きている。食物エネルギーは生きものを食べることによってのみ得られるからである。2.2 殺生の後ろめたさ
従って、直接間接に殺生をすることなしに生きることはできない。これに対する後ろめたさ、悲しさ、苦しさが、合理化を起こさせる:「この食べ物は生きものではない」ないしは「これには意識がなく、苦痛は感じまい」と思うことである。(注14)− 106 − 仏教における環境観の変容2.3 殺生戒の強調
ゴータマ・ブッダの時代、修行僧たちは、肉(注15)を含めて托鉢で得たものは何でも有り難く食した。ところが時代が下り、所も変わって、殺生戒が強調されるようになると、肉食が禁止され、残る植物に対しては2.2の如き解釈が採用されたと考えられる。2.4 しかしこれは所詮upaya(方便)に過ぎない。植物を食す時も、徒にこれを損なわぬよう 、(注16)少欲知足を心掛けなければならない。(注17)
3. 大乘経典のエコパラダイム再考
3.1 一般的な大乘経典のエコパラダイム
先に1.13で述べた如く大乘経典のエコパラダイムは 有情(意識あるもの) vs 非情(意識なきもの)である。つまり 生物 vs無生物 ではない。そこで草木は、もはや「一根の衆生」ではなく「非情」に配され「生きとし生けるもの」とは一線を画した存在である印象を与えているのである。3.2 草木が泣く
但しそれらの文献の中に、ごく稀に草木が我々と同じ生きものであることを思い出させる叙述がある。Syamaka(Sama)jataka の漢訳中、釋尊前生の{目炎}({ }内一字)仙人が射殺されたとき、草木が声を上げて泣いたという記述がそれである:「草木蕭蕭 有聲」 (注18)3.3 大乘経典の多様性
更に見過ごすことができないのは、大乘経典の多様性である。大乘経典に仏本生である樹木神説話が皆無であることは既に指摘した。 (注19) また3.1では一般的に草木は衆生と一線を画されていると述べた。
しかし、そうでない大乘経典が存在するのである。
その1は『法華經』であり、その2は『首楞嚴經』である。前者は天台、後者は密教において重んじられた重要な経典である。3.4 藥草喩品 (注20)
『法華經』の第五品は、大中小の草木が同一の雨に潤され生長し 華を咲かせ 実を結ぶということを、仏の一つの法が様々な衆生を利益することの喩えに用いている。この品は、やがて中国天台・中古天台に重要な影響を与えることになる。3.5 『首楞嚴經』 (注21)
この経には「十方の草木はみな すなわち有情(感覚がある生物)であって人と異なるところはない。草木が人に生まれ変わり、人が死んでまた十方の草樹となるのである」 (注22) と説かれている。
門弟の聞書き集より、親鸞は かつてこの教説を用いたらしいといわれる。 (注23)
4. 拡張されたエコパラダイム4.1 華厳の草木観
華厳の法蔵は、草木は感覚がないから、覚ることもない といった。4.2 中国天台の「草木成仏」説
これに対し天台は、草木も仏となる性質(佛性)を持っている(「草木成佛」)と主張した。この事は天台が『法華經』を所依の経典としていたことと密接な関係を持つ。すなわち3.4で『法華經』の藥草喩品が重要な意味をもつといったのはこのことであった。 (注24)4.3 湛然の佛性論
本論文の冒頭に掲げた『眞如觀』は天台僧惠心僧都源信(942-1017)の著作である。(注25)
これに先立つ中国天台の妙樂大師湛然(711-782)はその著作『金剛@』において、「1本の草にも木にも一個の石礫にも塵一つにも、いちいちに佛性がある…草木は生じたり滅したりする。塵、石ころも劫の時を経れば無くなってしまう」 (注26)と語っている。 湛然は動物/植物、生物/無生物を分けていない。かくて、再び、草木は言うに及ばず石・塵にまで生物エコパラダイムは広げられた。4.4 道家的伝統
中国においては、谷川のせせらぎに仏の声を聞き、そそり立つ岩に仏の姿をみる (注27) というような自然に一体感を感じる精神風土がある。これは、もとを糺せば荘子の「應帝王」 (注28)の如き道家的伝統である。 (注29) 中国天台はこのような土壌の上に「草木成佛」という思想を花開かせたと言えよう。4.5 中古天台 草木國土悉皆成仏
この思想は日本の天台に伝えられ、中古天台の重要な教理となった。「山川草木悉有佛性」とならんで「草木國土悉皆成仏」という術語も生まれた。この言葉の出典は『中陰經』であると伝えられるが、現存する『中陰經』には見当たらない。日本における発明であるらしい。4.6 更なる日本的展開
草木成佛・國土成佛は我々にも馴染み深いものであるが、天台ではさらに「非成佛」の思想が生まれる。悉く既に仏であって、今更あらためて成仏しない、というのである。「諸法実相」を突き詰めるとそうなるのかもしれないが、この思想に至っては、しかし到底凡人の理解できるものでなく、世間にも浸透しなかった。4.7謡曲
やはり日本人の自然観、日本的情趣と合うのは「草木國土 悉皆成佛」である。最後にこれが文学に影響を与えた例として、謡曲を二つあげよう:− 107 − 姫路工業大学環境人間学部 研究報告第1号(1999年)
「藥草喩品あらわれて、草木國土有情非情も、また「定家」にも、
みなこれ諸法実相の峰の嵐や谷の水音…
されば 柳はみどり、花は紅としることも、
ただそのままの色香の草木も成佛の國土ぞ」 (注30)「一味の み法の 雨の滴り、皆潤ほいてまことに、法華經の精神を美しく体現した文章である。
草木國土、悉皆成佛の 機を得ぬれば…」 (注31)
おわりに
仏教における環境観を考える時、常に問題になるのは植物である。植物を動物と共に我々人間の仲間に入れるか、あるいは、土石と共に、無機物の仲間に入れるかが争点となる。
一般に、植物は、動かず、話さず、知覚がない(非情)とされるが、初期仏教、部派仏教の時代を通じて生物であるとみなされ、感覚も全くないとは考えられていなかった。
ジャータカの世界では、植物を身体とし、樹神を魂とすることによって、草木を輪廻する生物とした例がみられる。筆者の考えでは、このような樹神本生は樹が仏の前世の姿であることを現し、樹も仏の種を宿すとして貴重である。今回この例を新しく2つ追加した。
植物を非情とみたり無生物に分類するのは、食料としてそれを考えた場合、殺生戒を犯すことを嫌い、植物を無機物的に扱いたいという願いがあったからだと考えられる。
然し、古代インド以来流れてきた環境観は根強く、大乘経典でも、『法華経』や『首楞嚴經』においては、草木が生まれ死ぬ存在、人と同じ生きものであるとされたのである。
そして、この脈脈と続いてきた底流が中国天台に受け継がれ、中国日本の草木成仏思想として開花したのであった。
現在も大きな樹木を伐るとき、移す時、魂抜きが行われる。その折には「当樹木神 発菩提心…」から始まり、中国天台で編まれた草木成仏のフレーズが本朝の僧によって誦されているのである。 (注32)
1. 『国際シンポジウム 仏教と自然』(以下『自然』)International Institute for Buddhist Studies (1990) pp.77-992. 『国際仏教学大学院大学研究紀要第1号, 国際仏教学大学院大学 (1998) pp.1-37。原實教授にはこの論文を始め多くの文献を頂き、一連の環境研究に対する懇切なるご教導を得た。
3. cf.拙稿「仏教説話におけるエコパラダイム ― 仏教説話文献の草木観と環境倫理」『印度學仏教學研究』第47巻第1号 (1998.12) pp.281-285
4. The Ecological Approach to Visual Perception, Boston. I.1;邦訳『ギブソン 生態学的視覚論 ―ヒトの知覚世界を探る―』 サイエンス社(1985)p.7
5. 例えば『大寶積經』では「又如大地 荷四重擔 何等爲四 一者大海 二者諸山 三者草木 四者衆生」(勝鬘夫人會第四十八 大11. 674a11-13)として衆生(生きとし生けるもの)と草木を分けている。
6. Schmithausen「古代インドでは人間や動物だけではなく、植物、種子や水、地などの元素も生きて心を持っている(sentient)と認識されていた」『自然』8.2);
Minoru HARA, A Note on Concept of Plant and Tree (2-2) (in press):”they (=plants and trees) are described in the MBh as having the ordinary five sense-organs.”
例えば、植物は光を感じ(視覚)、蔓が巻き付く(触覚)ことを考えれば、これを無感覚な存在とみなすことはできなくなる。7. 最古の要素を残すといわれるSuttanip?taに、生きもの分類があり、それは植物から始まっている:
jativibhangam pananam , 諸々の生物の生まれの区別を(説明しよう)SN 600cしかしこのことは後代の学者を面喰わせたらしくSNの注釈Paramatthajotikaは「まず意識のないもの(anupadinnaka) について説き始めた」との文を足している。(3-9經-8偈注)
tinarukkhe pi janatha 草や樹のも知れ SN 601a8. 拙稿(1998) 3 .p.284
9. SCHMITHAUSEN(1991):The Problem of the Sentience of Plants in Earliest Buddhism, Studia Philologica Buddhica Monograph Series VI, The International Institute for Buddhist Studies, Tokyo 5.4)
10. J412 Kotisimbalij?takaとJ475 Phandanaj?takaでどちらもBhaddas?laj?takaと事情は同じである。樹木のお終いは自分のお終いであるとして樹木との一体性を強調している。
11. HARA, ibid (2-1).
12. 『大寶積經』富樓那會第十七之二 具善根品第四 羅什訳 大正藏.11.443b11
13. 『自然』12)
14. Schmithausenはこのように言う「出家者と在家者が…不必要な不便さと良心の呵責に苦しまなくて済むようにして、不殺生戒の場合に限って、植物が生物であることを無視することにしたのでしょう」『自然』10.3)
15. 但し三種浄肉(殺されるところを見ていない・自分のために殺されたのではない・自分のために殺されたのではないかという疑いがない肉)の規定に反さない限りのことである。この伝統は上座部に受け継がれた。その流れを汲む文献には薬としての人肉食を説いた説話がある。これについては拙稿「薬施捨身説話 (3) 薬用人肉食の問題 ―Rastrapalapariprccha 第29話の並行話」『印度學佛教學研究』第42巻 第1號 1993. 12 pp.503-507参照
16. 「不殺生考」p.266
17. cf.Schmithausen, Plants 39.2;鎌田 『自然』p.112
18. 『六度集經』(43)大No.152.3.24c12);他にパラレルとして失訳『菩薩?子經』大No.174. 3.437b20);聖堅譯『{目炎}({ }内一字)子經』大No.175.3.439b12;441a26;443a14-15) この説話のこれら以外のパラレル(cf.拙稿「Rastrapalapariprccha中の釋尊前世50話」p.586)にはこの件がない。
− 108 − 仏教における環境観の変容19. 拙稿(1998)3.2. p.227および注7
20. 『妙法蓮華經』卷第三 藥草喩品第五 鳩摩羅什406年訳 大正藏9. 19a-20b24(これは3本中最も古い原典を使用したものと言われている);『正法華經』卷第三 藥草品第五 竺法護286年訳 大正藏9.83b-86b17;『添品妙法蓮華經』 第三卷 藥草喩品第五 闍那崛多・笈多601年訳 大正藏9.151c-155a26☆ 第49回印仏学会において、この品に注目するようにとのご教示を信州大学名誉教授 丸山孝雄博士(現 目白大学教授)に頂いた。ここに記して、多謝するものである。
21. 正式名は『大佛頂如來密因修證了義諸菩薩萬行首楞嚴經』唐 般剌蜜帝 訳(年代不明)
22. 「十方草木 皆稱有情 與人無異 草木爲人 人死還成 十方草樹」大正藏19.153c10-12
23. 鍋島直樹「親鸞からみた生命の問題」『日本佛教學會年報―佛教の生命觀』第五十五號 (1990) p.195
24. 『華嚴經探玄記第十六』
25. 比叡山專修院編 『惠心僧都全集 第壹卷』比叡山圖書刊行所(1927) 冒頭の言葉は p.30にある
26. 「一草一木 一礫一塵 各一佛性 …草木有生有滅 塵礫隨劫有無」 大正藏46.784b21-23
27. 「溪聲便是廣長舌 山色豈非清淨身」(蘇軾「贈東林總長老詩1084年作)
28. 例えば「遊心於淡 合氣於漠 順物自然」(『老子・荘子(上)』新釈漢文体系第7巻 明治書院1966 pp.281-282)のような境地
29. 一方、儒家は少しくらい自然を破壊しても、人の役に立つのならそれでよい、人は人に対しての道(人倫)を大切にすればよい、という考えである。cf. 鎌田茂男『自然』p.111
30. 『謡曲集下 日本古典文学大系41』岩波書店(1963)p.38
31. ibid.p.52
32. 以下は日蓮宗で用いているもので、出典を付した。一色一香 無非中道 (智{豈頁}({}内一字)『摩訶止觀』卷一圓頓章 大46.1c24f)【参考資料】
無情佛性 惑耳驚心 (湛然『止觀輔行傅弘決』卷一の二 大46.151c27f)
一艸一木 一礫一塵
[各一佛性]各一因果 具足縁了 (湛然『金剛{金卑}({}内一字)』?46.784b21-22 )
當知身土 一念三千 故成道時
稱此本理 一身一念 遍於法界 ( 『輔行』卷五 ?46.295c23-24)
草木國土 悉皆成佛・『妙法蓮華經』卷第三 藥草喩品第五 鳩摩羅什訳
譬如 三千大千世界 山川谿谷 土地所生・『添品妙法蓮華經』 第三卷 藥草喩品第五 闍那崛多・笈多訳卉木叢林 及諸藥草 種類若干 名色各異
密雲彌布 遍覆 三千 大千世界 一時等●
其澤普洽 卉木叢林 及諸藥草
小根小莖 小枝小葉 中根中莖 中枝中葉
大根大莖 大枝大葉 諸樹大小 隨上中下
各有所受 一雲所雨 稱其種姓 而得生長
華菓敷實 雖一地所生 一雨所潤
而諸草木 各有差別(大正藏9. 19a28-b6)
如彼大雲 於一切 卉木叢林 及諸藥草
如其種性 具足蒙潤 各得生長 (ibid 19b21-23)
譬如大雲 起於世間 遍覆一切 慧雲含潤電光晃曜 雷聲遠震 令衆悦豫 日光掩蔽
地上清涼 靉酸垂布 如可承攬 其雨普等
四方倶下 流?無量 率土充洽 山川険谷
幽邃所生 卉木叢林 大小諸樹 及諸藥草
種類若干 名色各異 密雲彌布 遍覆 三千大千世界
一時等其澤普洽 卉木叢林 及諸藥草
小根小莖 小枝小葉 中根中莖 中枝中葉
大根大莖 大枝大葉 諸樹大小 隨上中下
各有所受 一雲所雨 稱其種姓 而得生長
華菓敷實 雖一地所生 一雨所潤
而諸草木 各有差別 (ibid 152a1-12)
( 文中敬称略)