お茶漬けノスタルジー
放浪の旅に出ていた御茶漬け屋の目黒さんが、八年ぶりにこの町に帰って来た。
かつて、目黒さんは駅前通りの一角に小さな店を構え、ぼさぼさの頭にタオルを巻きつけて、日がな一日御茶漬けと格闘していた。平々凡々たる御茶漬け屋で、店の前に出来る行列は長くも短くもなかった。自慢の一品は、かなりの量の脂が浮かんでいるこってりとしたカキアゲ茶漬けだった。目黒さんはその不健康な御茶漬けを客に供するだけでなく、自らも賄いとして毎日食べていたそうである。そのせいか、彼の腹周りは年々太くなっていった。気のせいでは無く、着実に太くなっていたのである。もともと痩せっぽちだった彼の、腹周りだけが太くなっていく様子は、実に異様なものであった。そして、これ以上太くなったらば、そろそろ健康診断に引っかかりそうだな――と常連たちが思い始めた頃、目黒さんは忽然と姿を消したのだった。夜逃げだ、駆け落ちだ、失恋のせいだ、料理修業に出たのだ、秘伝の食材を探しに行ったのだ、自分を探しに行ったのだ、などなど、様々な憶測が乱れ飛んだが、真相は藪の中であった。そして時は流れ、いつの間にか八年もの歳月が経っていたのである。
一、オコゼに似ている五島さん、オコゼを前に思案する
目黒さんが帰って来る――ぼくはそのニュースを、主夫仲間の五島さんから聞いた。初夏の気持のよい空気が、徐々に湿り気を帯び始めたある日のことだった。ぼくは夕暮れ時のスーパーで、晩飯の材料を物色していた。
このところ肉が続いたから今日は魚かな、なんて思いながら生鮮食品売り場に足を運ぶと、いかつい大男がオコゼを手に何事か思案していて、それが五島さんだったのである。
「おや、五島さん。こんにちは」とぼく。「今晩はオコゼですか」
「ああ、サトウさん、こんにちは」五島さんは若干照れ臭そうな様子でいる。「どうしようか迷っている所なんですよ。わたし自身はこいつが大好物で、是非とも食べたいんです。しかし、女房の奴が魚嫌いの上に、オコゼは特に苦手ときていて――。『顔が恐い』なんて言って、嫌がるんですよ」
ぼくはオコゼの顔を見た。確かに恐かった。そして、五島さんによく似ていた。考えてみると、今現在五島さんは筋骨隆々の体躯の上にオコゼの顔を乗せたような風貌で、オコゼを手に佇んでいるのである。客観的に見ると、実に奇妙な光景であった。
暫くの間、ぼくたちは慎ましやかに立ち話をした。政府の台所事情から我が家の台所事情に至るまで、うすら寒い生鮮食品売り場にて存分に語り合った訳である。その中で、話がご近所の事に及んだ時、「そう言えば、目黒さんが近々帰って来るらしいですよ」という驚嘆すべき情報が、五島さんの口から飛び出したのである。
ぼくは仰天した。目黒さんは蒸発してしまったものとばかり思っていたのである。当然だろう、八年間も行方知れずになっていた人間が突然帰って来るなど、常識では考えられない。珍事以外の何物でもない。
「また、駅前で御茶漬け屋をやるみたいですよ」五島さんはそう言って、オコゼを籠に入れた(彼はついに決断したのだ!)。
「いやあ、これはたまげた――」ぼくはため息とともに言った。「それにしても目黒さん、八年間もどこに行ってたんでしょうねえ・・・・・・」
さあ。色んな所へ行ってたんでしょうよ。確かに長い年月にも思えますけれど、実際には、八年なんてアッと言う間ですよ――五島さんはしみじみと言った。
八年なんてアッと言う間、か――。オコゼの入った籠を手に提げてレジへ向かう五島さんの後ろ姿を見送りつつ、ぼくは心の中でその言葉を反芻していた。彼の背中の彫り物が、白いTシャツ越しにうっすらと浮き上がっていた。カラフルで、サイケデリック調だな、と思った。
二、鱈のムニエルを食べながら、御茶漬けに思いを馳せる
夕暮れ時の台所にて、鱈の切り身にパン粉をたっぷりとつけてフライパンの上にかざした瞬間、「ただいま」という声がした。ミサコが会社から帰って来たのだった。
「おかえり」そう言ってぼくは鱈をフライパンに投入した。たちまち、威勢よく油のはぜる音が家中に響き渡った。「今日はえらく早いね」
鱈の切り身は着実にムニエルへと変化してゆき、それと連動するようにして、窓から見える空の色がオレンジ色に変色していった。
こんな具合に、一日は終わってゆくのだった。
夕食の席にてぼくは、ミサコに本日のニュースを早速伝えてやることにした。
「さっきスーパーで五島さんに会ってさ、立ち話してる時に聞いたんだけれど」
「うん」ミサコはホーレン草に胡麻をかけつつ相槌を打っている。
「目黒さん、帰って来るらしいね」
「目黒さん――」胡麻をかける手が止まった。「――目黒さんてあの、昔駅前で御茶漬け屋さんやってた人よね」
「そうだよ。八年ぶりの帰還だよ」ぼくはそう言って、大きく頷いた。
「それは確かに、吃驚するニュースだね」ミサコも大きく頷いた。「あの目黒さんがねえ――。生きていたとはね。私もうてっきり……」ずいぶんと失礼な感想を述べている。
「それにしても、何で戻って来る気になったんだろ」
「さあ。またぞろ、この町で御茶漬け屋やりたくなったんじゃないのか?」
「へえ。凄いね」
何が凄いのかは分からないが――いや、その通り、凄いことだ。まるで八年という歳月がもんどりうって、お茶漬けに混ざって逆流してくるような、そんな気がした。テーの上に目を落とすと、蛍光灯の光に照らされたムニエルが、リアリティの欠如した質感を伴って浮き上がって来るので、慌てて箸でほじくった。
「新装開店し鱈食べに行こう、目黒さんの御茶漬け」とぼくは言いながら、茶碗の底に残っているごはんの上に渋茶をまぶした。こうやって食べる御茶漬けと、店で供される御茶漬けとは決定的に違う食べ物なのだよな、そんなことを考えながら、ぼくは茶碗の中身を無作法にかき込んだ。
「うん、行こう行こう」そう言ってミサコは湯呑を取り上げ、ぼくの真似をしてごはんに茶を掛けた。
「ひさしぶりに、あのカキアゲ茶漬けを大盛りで頼もう。うん、行こう行こう」胃下垂のせいで慢性的に食欲過多の我が妻は、歌うような口ぶりでそう独りごちていたものである。
三、いかにして御茶漬け屋が異次元空間へと変貌したか
かつて目黒さんの店がどれほどの人々に愛されていたのかは、今となっては分からない。失礼を承知で言えば、そこまでは愛されてもいなかったのかもしれない。
とは言え、ぼくは割と頻繁にこの店を利用していた。酒をしこたま飲んだ後、もしくは、深夜に下宿でジェームス・ジョイスなんぞを読んでいて腹が減った時などに、目黒さんの店に足を運んだものだ。夜遅くまで営業していたし、何よりも、貧乏学生が一人でも入りやすい店だったので。
暖簾をくぐると、こぼれた茶の飛沫にまみれたカウンターと、申し訳程度にあるテーブル席、その猫の額のような空間に、会社帰りのサラリーマンや、ぼくと同類の血色の悪い男子学生のような人種が陣取って、もくもくと茶漬けを啜っている。
目黒さんはぼさぼさの頭にこ汚いタオルを巻き、飯を盛り、茶を注ぐ。ぼくはカウンターに向って始終俯いたまま、茶漬けが来るのを待ち、来たらせわしなく食う。食い終われば、そのまますぐに帰る。そこには、余韻も感傷もない。ただ、若干膨らんだ胃袋が残るだけ。
――とまあ、その程度のものである。
結局のところ、何処の町にもあるような、いたって平凡な御茶漬け屋である。そんな店がひっそりと休業したところで、騒ぎ立てる人間など一人もいなかったのだ。
しかし知らず知らずのうちに、奇妙な喪失感が蔓延するようになった。それまでは当たり前のように在ったものが、ある時何の前触れもなく消滅してしまったのである、不条理以外の何物でもない。一軒の御茶漬け屋を失ったまま、何も変わっていないような顔つきで流れて行く日々、誰も気にも留めないものの、気づかないほどに微かな寂しさが、胸中の気づかないような場所で疼いているのだった。
その寂しさを埋め合わせるためなのか、はたまた空いた店舗を有効活用しようとしたのか、目黒さんの妹であるヨシコさんが立ち上がった。彼女はいつもゴシック調の流麗なドレスに身を包み、花柄のパラソルをかざし、油すましの如くすましていて、町内でも一際異彩を放っている存在であった。
ヨシコさんは主の居なくなった御茶漬け屋を改修して、お洒落な喫茶店を始めたのである。彼女は「おちゃづけ・目黒屋」と書かれた看板を下げ、代わりに「喫茶Meguro」という看板を上げ――「Meguro」なんて店名をつける感性は、どうかと思うのだけれど――壁紙をすっかり張り替え、カウンターとテーブルは上手い具合に残し、コーヒーミルを置き、自家製ケーキを焼き、ヴィンテージの調度品を並べ、コーヒーミルを置き、シャンデリヤを吊るし、店の前にプランターを設置し、プランターにはハーブを植え、全く異質な空間を作り出したのである。それまでは塩気と脂を売り物にした御茶漬け屋だったのが、いつの間にかヨーロピアンなカフェテラスへと変貌していたのは、センセーショナルかつシュルレアリスティックな事件だった。
しかし、生活のにおいというものが息詰まるまでに充満しているこの町に、そんな喫茶店がすんなりと溶け込むはずもなく、完全に都市の風景から浮きあがってしまった。ある意味で、オーパーツのようなものである。カレーライスの香りが漂ってきそうな夕暮れ時の駅前通り、行き交う疲れた人々――彼らは、お洒落な家具に囲まれてアプリコットティーを啜り、手造りの苺タルトに舌鼓を打ちながらシャンデリヤを見上げる、などという悠長で気取ったひと時を過ごしたいとは、別だん思わなかったのである。
とは言え、捨てる神あれば拾う神ありという言葉通り、このオーパーツのような喫茶Meguroにも、ちゃんと常連客が訪れるようになった。それは、アングラ劇団の役者陣であった。この店同様、町の日常風景から浮いてしまった人たちであった。
劇団員たちは舞台がはけた後に店に寄るらしく、しかもメイクも落とさず、衣装も着たままでやって来るものだから、夜になると喫茶Meguroはさながら仮面舞踏会のような様相を呈したものだ。壁がガラス張りなので、店内の混沌とした風景は外から丸見えであった。立ち止まって、まじまじと覗き込む通行人もいた。それは壮観だった。髪の毛の半分が黒、もう半分が赤色の女性がフルーツ・パフェをかき込み、ペンキにまみれた国籍不明の若者がレモネードを啜っている。キリンの着ぐるみ、蛙の着ぐるみ、タヌキの着ぐるみをまとって煙草をくゆらせている豪傑たちもいた。その横では、一体どんな役どころなのか分からないが、潜水服を着た男がカレーライスをがつがつと食べている。そして皆一様に、寺山修司の映画を思い出させるような、白塗りのメーキャップを施しているという有様だ。ひょっとして、そうして喫茶店にたむろする行為そのものも、彼らにとっては芝居の一部だったのかもしれない、と思う。こうしたアヴァンギャルド・アートの世界は、凡人で俗人たるぼくには、なかなか理解し難い光景だった。
「ねえ、賑わってて楽しそうだし、入ってみない?」
夕刻、店の前を通りか会った折に、ミサコがそんな大それた提案をしたこともある。
「いやあ、遠慮しとく。おれはあの空間に溶け込む自信はないよ」とぼく。
「それは残念」ミサコは肩をすくめる。「あの潜水夫が食べてるカレー、じつに美味しそうなんだけどなあ」
ぼくはぽんと彼女の肩をたたき、
「まあ、今度、空いてる時に来てみよう」
「そうね」
「ついでに、あいつらの芝居もいっぺん観に行ってみたいな」
「いいねえ、行こう行こう!」
そう言いつつも結局、喫茶Meguroを訪れたことはなく、アングラ劇団たちが一体どこでどんな芝居をしているのかも、一向に分からないのだった。それにしても、この平々凡々たる町のどこかで、キリンやら蛙やら潜水夫やらがひしめき合って演劇に興じているというのは、驚嘆すべきことに思われるのだった。
四、バー「Bar」にて、カーネル人形盗難事件を回想する
目黒さんの御茶漬け屋の隣に、「Bar.」という身も蓋も無い店名のバーがある。カウンターだけのつつましやかな店で、たった一人で切り盛りしているのは五島さんの奥さんである。やや昔懐かしい技巧で化粧を施し、倦怠期も更年期もどこ吹く風で、年中無休で働いている力強い女性である。これも何かの御縁なのか、彼女もミサコと同様、内縁の妻であるそうだ。
ドアを開くと同時に「あら、いらっしゃい」と、やや低くハスキーな声がカウンター越しに飛んで来る。開店して間もない時間帯なので、まだぼくの他に客はいない、実質的には。ただサクラが一人いて、もう赤い顔をしてウヰスキーを啜っている。他ならぬ五島さんである。
そう言えば五島さんは奥さんと喧嘩していたはずだが、この様子を見ると、丸く収まったようである――ぼくは先日の出来事を思い起こしていた。
散歩の途中、近所の神社を通りかかったら、五島さんが不貞腐れたオコゼのような顔をして石段にしゃがみこみ、汚いドバト達に餌をやっていたのである。
「やあ、五島さん」とぼく。ドバトが一斉に飛び去って行く。五島さんはぼくの方を向くと、ばつが悪そうに笑った。
「ビールありますけど、飲みましょうよ」ぼくは缶ビールの入ったビニール袋をかかげて見せた。先刻立ち寄った酒屋で購入したのである。すると五島さんは
「これは有難い!」と、大袈裟にも思える歓声を上げた。缶ビールごときで、何がそんなに嬉しいのだろう――ぼくはそう思いながら、袋の中身を手渡した。
そして、平日昼間から暇な者同士二人並んでビールを呷り、呷り、呷り、訥々と世間話をしていたのだが、やがて五島さんは照れ臭そうに「実は女房と揉めちまいましてね」と語り出したのである。
「一体どうしたんですか」
「いやあ先日、年甲斐も無く飲み過ぎちまって、酔った勢いで軽犯罪をはたらいちまって――」五島さんはそう言うと照れ隠しのためか、豪快に笑って見せた。「女房に大雷を落とされましたよ」
「一体何をやらかしたんです」
「それがねえ、自分でも何故そんなことをしたのか分からんのですが」五島さんは首を傾げる。「ケンタッキーの表に、爺さんの人形が置いてあるでしょう。あれを担いで町を歩き回っていたらしいんですね」
それはたちの悪い犯罪だ、とぼくは心の中で呟いた。想像してみると、実に恐ろしい。泥酔したオコゼが、背中に入れ墨とカーネル・サンダースをかついで徘徊している姿――。
怪奇映画の世界である。
「まったく覚えていないんですか」
「いや、そうでもないんですが」五島さんは、今度は逆の方向へ首を傾げる。「とにかく不可解です」
「一体、どのような」
「――ほろ酔い気分で町を歩いていて、ケンタッキーの前を通りかかったんです。すると店の前に、白いスーツを着た、えらくハイカラな風貌の爺さんが佇んでいましてね、わたしに声を掛けて来たんです、『大将、いいご機嫌だね!』と。
――それでわたしは、『おうよ、今夜ははしご酒さ!』と愛想良く答えると、爺さんは『何なら付き合うよ、おれもこれから飲みに行くつもりだったんだ』なんて言うんです。
――そりゃ一人で飲むより仲間がいた方が嬉しいじゃあないですか、酔っ払いの心理として……。相手も悪い人間ではなさそうだし、わたしは爺さんの申し出を快く受けたんですよ。『ああ、一緒に行こう!』と。
――それで二人肩を組んで、とても初対面とは思えぬ気安さで、ふらふら歩き出したんです。
――ところが、なにぶんわたしは酔っ払っている。足元も頭も怪しい具合で、なかなか目的地の飲み屋まで辿り着けない。いつの間にやら郊外の、見知らぬ道を歩いている。
――気づいたら朝でした。わたしはキャベツ畑のへりに、カーネル人形を抱えて倒れ伏していました」
時間をかけて訥々と、しかし微量のアルコールに勢いづけられたいせいか、いつもよりも饒舌な口調で語り終えると、五島さんは缶の中身を一気に飲み干した。
ぼくは想像してみる――電飾看板に彩られた夜の町、オコゼのような顔をした巨漢が、真っ白い等身大の人形を小脇に抱えて闊歩している風景を――それはあまりに突拍子がなく、薄気味悪く、哀しかった。
「まあ、仕方無いので店に謝りに行って、修繕費を払うということで和解したんで、よかったんですがね。しかし何と言っても、恐ろしいのが――、
――恐ろしいのが女房です。正直にいきさつを話したら、『人間と人形を間違えるなんて有りえない、あんたは阿呆か唐変木か』と、取りつく島もない。
――挙句の果てに禁酒を言い渡されましてね」
「それは大変ですねえ」ぼくは苦笑いした。
「いやあ、このビールは有難かったです、久しぶりにアルコールの美味を堪能しましたよ」五島さんは空になった缶を握りしめ、しみじみとそう呟いた。ぼくは袋の中からもう一本缶ビールを出し、「ま、もう一本どうぞ」と手渡した。先刻飛び去ったドバトたちが、いつの間にか戻って来て、我々を取り囲み地面を啄んでいた。
近所の高校から、野球のボールを打った時の爽快な響き、調子っぱずれな吹奏楽のメロディが奇妙に絡み合いながら聞こえて来て、それが突然走り来た電車の轟々たる足音に掻き消されていった。ぼくは黙ってビールを飲み込む。ほろ苦く生ぬるく、さして旨くも無い(五島さんは至極旨そうに飲んでいるものの)。空は晴れているのか曇っているのか、今一つ判然としない。どうでもいい、些細なもめごとが、ノドの奥に引っかかったオコゼの小骨のような質感をともなって、降り積もり沈殿し、空だの風だのを作り上げているのだ。情けなくさりとて悪くもなく、仕方のない情景だった。ぼくは舌の上で弾けては消えるうたかたを静かに味わっていた。
「それにしても、珍事件に巻き込まれてしまったものです」五島さんはしみじみと言った。巻き込まれたのではなく貴方が起こしたのでしょう、口には出さずにそう呟きながら、ぼくは不思議な既視感に襲われていた。確かずっと前に、これとそっくりな出来事があったような――。
五、そこに町内会長がやって来て、意味もなく乾杯。
ドアが開く。ぼくに続く、本日二人目の客が入って来た。金髪をなびかせながら大股で歩いて来た大男、それはこの店の常連である、町内会長であった。
ぼく、町内会長、五島さん、常連が二人とサクラが一人、いつものメンバーが揃ったところで、意味もなく乾杯。なにも目出度くも無いのに、乾杯。
町内会長は駅前商店町で金物屋を営んでいる、今年三十六になる男である。年甲斐も無く黄金色に輝いている長髪がトレード・マークだが、この珍妙なヘア・スタイルは、かつての稼業の名残である。
町内会長は、ほんの六年前までロック・ミュージシャンだったのである。パンクをベースにクレズマーやジャズの要素を取り込み、ノイズ・ミュージックにも接近した音を聴かせる、前衛的で渋いバンドをやっていて、現在の情けない中年男ぶりからは想像もつかないほどに真剣にロックしていたものである(ちなみに当時は、その長髪を天に向って逆立てていた)。
町内会長は件のバンドを十六の時に結成し十年近く続けていたのだが、さすがに三十路が近づいてくる頃になると、音楽的にも生活上でも行き詰って来た。メンバーに逃げられ、ファンにも逃げられ、挙句の果てには糟糠の妻にも逃げられる。十九の時に作った子供も小学校に入学するまで大きくなっていた。そして、ある年の夏のことだった、四十年間に渡って商店町で金物屋を営んでいた父親が突然に死んだのである。会長はギターを手放し、金物屋を引き継ぐことにした。この転身について彼は、金物を売ることもロックの一種さ、と言っている。よく分からないが、分かるような気もするから不思議なものだ。
当初、商店町の善良な人々は、「あの金物屋の不良息子が店を継ぐらしい」ということで戦々恐々としていた。ところがこの不良息子、大方の予想を裏切り、実に勤勉で誠実な男だったのである。それはそうであろう、彼は大して売れていもしないバンドを十年も運営していたのだ、その忍耐力と持続力は他の追随を許さないものがある。(そもそも、ロック・ミュージシャンというものは、享楽的、刹那的に生きているように見えて、実は非常に律儀な人たちなのではないか、とぼくは思っている。本当に享楽的、刹那的な人間ならば、ギターコードのFを押さえられるようになるまで練習を重ねる、などということはしないだろうし、ライブを催すために必死でビラを配ったり、友だちにチケットを売りさばいたりといった、死ぬほど面倒くさいことは絶対にやらないだろう)。
ともかく、勤勉で誠実な不良ほど人々の心を捉えるものはなく、たちまち彼は商店町の人気者となった。そして圧倒的な支持を得て、三十過ぎという若さながら、町内会長に抜擢されたわけである。
なかなかどうして、いい人生だなあ、と思う。しかし、ぼくとしては、もう一度町内会長にはロックをやってほしい、かねがねそう思っているのである――実はかつて、ぼくは彼のファンであったので。
町内会長は焼酎に梅干しを浮かべ、しかる後に呷りながら、くだを巻き始めた。なんでも、彼がその昔(まだパイナップル・ヘッドだった頃)にこしらえた三枚のCDを再発したいと、とあるインディーズ・レーベルから申し出があったのだとか。
「それはいい話じゃないか」とぼく。
「冗談じゃねえ、おれは嫌だよ。あんな若気の至りで出したレコードを、今頃になってまたぞろ引っ張り出して売ろうだなんて、恥ずかしくて死にそうになるわ」
「ムキになるなよ」本当は嬉しくて仕方がないのだと、ぼくは分かっていた。
「ムキになんてなってねえよ」と、町内会長。「パイナップル・ヘッドで粋がってた奴の歌なんざ、誰も聴きたがらないだろう。世間様の笑いものになるのは真っ平だ。」
「そんなにイヤなの?残念ねえ。で、お断りしたの?」と、五島さんの奥さん。
「いやあ、断ったわけじゃあないんだけれどね」奥歯にはさまったものを楊枝でいじりながら、町内会長は言う。「そりゃあ嫌だがな、どうしてもと言うのなら、考えないことはない」
「なんだ、結局、乗り気なんじゃないか」
「だって仕方がないだろう。仮におれがこの話を蹴ってしまって、おれのレコードが依然として廃盤で入手困難のままになったとする。するとどうだ、中古市場やブート屋で、おれのレコードの値は上がる一方――まるで、裸のラリーズのように!――そうなれば、おれの作品を聞きたくても聞けないファンたち、清貧に甘んじているいたいけなロック少年たちが可哀想じゃないか!」
ずいぶんと焼酎が回っているようだ。ぼくは肩をすくめた。
五島さんの奥さんが口を挟む。「再発ってことは、昔出したレコードをもう一ぺん出し直すことよねえ。あなた、昔のじゃなくて、新しいレコードはもう出さないの?」
「新しいレコード!新譜!ニュー・アルバム!」町内会長はのけぞった。「おれはもう音楽家じゃあない。今はしがない金物屋の親爺だ。新しいレコードを作って売るより、新しく仕入れた鍋やヤカンを売りさばくことを優先するよ!」
いやあ、そう言わずに是非、新しいアルバムを作ってほしいんだがなあ――ぼくはナツメヤシを頬張りながら、そんな風に思っていた。しかし、果たして、この焼酎くさい親爺にそんな才覚が残っているのかどうか、はなはだ疑わしくはあるが。町内会長は二杯めの焼酎を美味そうに飲みながらベラベラと喋りまくり、ギターを弾くパントマイムを披露して悦に入っていた。それは哀しい光景であったが、同時に、幸福そうな光景でもあり、それでもやはり、哀しかった。
宴もたけなわの時、ドアが少し開き、やせっぽちの女の子がおずおずと顔を覗かせた。こぼれ落ちてしまいそうな大きな目は何の表情も見せず、うすい金色の髪の毛は首筋の上で切りそろえられていて、すぐに折れてしまいそうな梢のような脚が地面に向って伸びている。奥さんは、町内会長の方を向き直って叫んだ。「パパー、娘さんが迎えに来たわよ」
何だかわけのわからない、哀しさを含んだ言葉をぽろぽろとこぼし続ける会長の手をとり、娘さんはぺこりとお辞儀をして出て行った。二人は連れ立って歩きだしたのだけれど、あの華奢な脚であの巨漢をつれて帰るのは大変だろう。父親のおぼつかない足取りにつられて、彼女も危なげによろめいていた。カーネルサンダースの人形を背負い、千鳥足で町中に消えて行く少女の姿を戯れに想像してみながら、ぼくは水くさいウヰスキーを飲み干した。
六、目黒さんと八年ぶりの再会、その時ぼくは
それにしても目黒さん、また茶漬け屋をやるという話だけれど、かつての「おちゃづけ・目黒屋」は「喫茶Meguro」に変貌してしまっているわけで、一体どうするのだろう・・・・・・新店舗を出すのか、それともヨシコさんを追い出して喫茶店を茶漬け屋に戻すつもりなのだろうか・・・・・・と誰しも首をひねっていたのだが、解決策は意外なほど単純なものであった。
ある日、喫茶Meguroのドアに一枚のビラが貼り出された。<おちゃづけ始めました>
同時に、店内の壁に掲げられたメニューには、「鮭茶漬け」や「ワサビ茶漬け」、「カキアゲ茶漬け」といった名前が追加された。
そしてカウンターの向うでは、目黒さんがせっせと御茶漬けを作っていたのである。
早い話が、目黒さんは喫茶Meguroにて、お茶漬け担当の一店員として働き始めたのである。妥協策として、それなりに妥当なものであろう。
ぼくとミサコは、<おちゃづけ始めました>という件のビラが張り出されたまさにその日に、久々に目黒さんの御茶漬けを堪能すべく、喫茶Meguroに足を運んだ。
開店して間もない時間だったにも関わらず、すでに店内は込み合っていた。目黒さん復帰、という噂を聞きつけた「かつて」の常連たちと、奇妙な衣装に身を包んだ「最近の」常連たちが押し掛け、所せましとヴィンテージ家具の置かれたヨーロピアンな空間にひしめき合っていたのである。痛々しい少女趣味と屈折した懐古趣味が入り乱れ、なんだか凄惨な事になっている。奥のテーブル席には、五島さんと町内会長の姿が見えた。もう少し早く来れば彼らと相席出来たのに、出遅れてしまったな、と思いながら、ぼくたちは空いているカウンター席に着いた。隣の席には、キリンの縫いぐるみを着た男が座ってた。
「大盛りカキアゲ茶漬け、二つ!」ミサコが威勢よく注文した。並盛りで充分なのに、とぼくは肩をすくめた。
「はい、カキアゲの大、二丁!」と声がして(その塩辛声は、ヨーロピアンな空間の中でひどく場違いに響いた)、カウンターの向うでひょいと頭をもたげた者があった。
目黒さんだった。
ぼくは思わず息を呑んだ。八年の歳月を経て、彼は変わり果てた姿になっていた――からではない。
逆だった。目黒さんの容貌が、全く変わっていなかったのである。ぼくの記憶に残っている、失踪直前の姿そのままだった。少しも老けたようには見えず、髪の毛のぼさぼさ具合、それを覆い隠すように巻きつけたタオルの汚れ具合、当時のままであった。
そして何よりも驚くべきなのは、彼の腹周り・・・・・・これは、かつて彼の身体の中で絶えず変化し続けていた部位だった。しかし、今現在ぼくの目の前にある目黒さんの腹は、失踪する直前の「これ以上太くなったらば、そろそろ健康診断に引っかかりそうだな」というべき状態のまま、しぼんでもいないし、さらに太くなってもいなかったのである。
八年ぶりの再会、とはとても思えなかった。せいぜい二、三日ぶりの再会、という風情だった。言うなれば彼は、浦島太郎のようだった。厨房のどこかに、玉手箱を隠してでもいるのだろうか。
ドアが開き、髪の毛の半分が黒、もう半分が赤色の女性が入って来た。アングラ劇団員たちは、拍手しながら彼女を迎え入れる。それ以外の連中は、我関せずという顔つきのままでいる。八年の歳月を皺という形にして顔に刻みこみ、かつての常連客達は茶漬けを食べ続ける。
ぼくはなみなみと注がれた出汁に天ぷらをひたしつつ、少なめに盛ってあるご飯を突き崩してゆく。キリンの縫いぐるみが、物珍しそうにこっちを見て来る。構わずぼくは、御茶漬けを着実に啜りこんでゆく。ああ、この味だ!ぼくは舌の上だけがいきなり八年前にタイムスリップしたような感覚に襲われ、思わずクラクラとなった。痺れるほどに懐かしい味が、たまらなくグロテスクに思われる。ノスタルジーの本質はグロだったのか?なんてことだ、一般論として、変わらないでいることは素晴らしいことだと思っていたが、こんなにも居心地の悪いものだったのか!
そもそも、八年も旅をしていたのだから変貌して当然――などという前提そのものが間違っているのかもしれない。ぼくに限らず、人は「旅」という行為に必要以上のロマンティシズムを抱く傾向がある。そうした下らない思いこみの反動として、大して老けこまなかった目黒さんを見て「まるで浦島太郎のようじゃないか!」と感じてしまうのかもしれない。
いや、もしくは、ある意味において、目黒さんは確実に変化したのかもしれない。ぼくの眼には目黒さんの姿が八年前のままに見え、ぼくの舌には御茶漬けの味が八年前のままに感ぜられた。それが逆に、あやしい。何故ならば、目黒さんはさておき、ぼくの方はと言うと、この八年の間に確実に変化しているのである――それ故、僕の中にある目黒さんの記憶も確実に変化しているはずなのである。つまり、何も変わっていないように思われた目黒さん、実のところは、ぼくが持っている彼のイメージとぴったり一致するように、変化を遂げていたのではなかろうか――。それにしてもおれは、何を七面倒くさいことを考えながら茶漬けを食っているのだろうか、こんなまがまがしい場所で。
シャンデリアの灯りの下、趣味のいいヴィンテージ家具と、悪趣味な仮装行列と、萎びた中年男女たちがひしめき合う空間の中で、目黒さんと、目黒さんのお茶漬けだけが浮かび上がっていて、その捉えどころない浮遊感が漬物にまとわりつき、ぼくの歯と歯の間で情けない音を立てていた。
「目黒さん、ちっとも変ってなかったね」
店を出るなり、ぼくはミサコにそう囁いた。
「そうだね」
ミサコは頷いた。
七、我が青春の日々――パイナップル頭との対話
八年前のある夜――せわしない箸使いでカキアゲ茶漬けを掻き込んでいたぼくは、まだ下宿住まいの学生だった。始終不機嫌そうな顔つきで、実際不機嫌だったのだけれど、背中を丸めて町を歩き、時に戯たわむれに背筋を伸ばして見たりもし、時間を無駄遣いすることをただ一つの仕事として日々をやり過ごしていた。いつまでこうしているのだろうか、下宿を出る日が来るのだろうか、そういった諸々の心配ごとは、とりあえず掃溜めに押しやっていた。しかし、その掃溜めももうすぐ一杯になりそうなのだ――ぼくは前歯の先で萎びたきゅうりの古漬けを齧り、出汁のきいた茶をすすり込む――この先、自分が労働に従事している姿はうまく想像出来なかったし、そうかと言って野垂れ死んでいる姿も想像しなかった。とは言え、本当に労働も野垂れ死にもせずに生きてゆくことになるとは、これまた想像もつかないことだった。
「よう」背後でそう呼ぶ声がしたので振り返ると、ジョー・・・・・・今から八年前、町内会長はこんな恥ずかしい名前で呼ばれていたのだ・・・・・・がギターケースを背負って立っていた。
「おう」ぼくは茶碗から顔を上げた。「ライブはけたのか」
「ああ」と町内会長、もとい、ジョ―(取り合えずここでは、この懐かしい名前を使ってみることにする)は頷く。「お前、見に来てくれなかったよなあ」
ぼくは肩をすくめる。
「薄情なやつ」ジョーはギターケースを下ろし、ぼくの隣に座った。「お前、昔は毎回見に来てくれたのにな――おっちゃん、ワサビ茶漬け一つ!」
しかしジョーはそうやってぼくを詰るものの、ライブを見に来なくなった理由を尋ねようとはしなかった。おそらく、彼も分かっているのだろう。ぼくはジョーの横顔を見やった。彼のトレード・マーク、天を突き刺すようなパイナップルヘッドが蛍光灯に照らされ、くすんだ黄金色に輝いている(そう、当時は、ジョ―の髪の毛は重力の法則に反抗していたのだった)。そのパイナップルの頭を、彼は節くれだった手で掻き回す。ああ、もうすぐこいつのバンドは終わってしまうんだろう、とぼくは思った。
「なにジロジロ見てンだよ」とジョー。
「お前のパイナップルを観察していた」そう言ってぼくは、コップにお冷をつぎ足した。
「今日はさんざんだったよ。客の入りもノリも悪かった」ジョーはまたぞろパイナップル頭を掻き回し、整髪料のにおいが辺りを漂った。
「へえ、そりゃ気の毒だったな」と、ぼく。
「ずいぶんと素っ気ない返事だな」
「慰めてほしいのか?」
「馬鹿にするな」と言ってジョーは中指を突き立てようとしたものの、その仕草があまりに芝居がかっていることに思い当ったらしく、天に向けて振り上げた手をぶらぶらさせながら再び下ろし、顔を赤くした。
「もう、おれは――おれはバンドやめるよ」と、パイナップルヘッドに似合わぬ弱々しい声で言った。
「やめて、どうするんだ」
「金物屋を継ぐさ」ぼくは冗談だと思っていた。まさか、この宣言が現実のものとなろうとは。
ほどなくして、ジョーの頼んだワサビヅケが出て来た。小ぶりの茶碗から立ち上る湯気が、鼻の奥を心地よく突き刺す。
「今日は打ち上げに出なかったのか」
「出なかったよ。あんなに寒い演奏をしちまった後じゃ、酒飲んで騒ぐ気にもなれない」ジョーは美味そうな音を立てて茶漬けを食べ始めた。「飲んだくれて、何が楽しい」
「お前、あの一件以来、酒にはよほど懲りたんだなあ」ぼくはにやにや笑いが止まらない。
「喧しい」ジョーは荒々しく噛み砕いた。
「それにしてもお前、出て来た時は丸刈りだったのにさあ、もうそんなに髪伸びたのかよ」
「これは非常時用だ。鬘だよ」
何と!このパイナップルヘッドが贋物だったとは!
つい先日まで我らがジョーは、拘置所生活を送っていたのである。罪状は、窃盗罪と器物破損。酔っぱらった勢いでの犯行であった。その逮捕劇に誰よりもショックを受けていたのは、他ならぬ本人だった。実際のところ彼は生真面目で小市民的な男であったので――たとえ、パイナップルのような頭をしていたとしても(今ではそれは、鬘にすぎないのだが)。
具体的に、どんな事件を起こしたのかと言うと・・・・・・深夜、我を忘れるほど酔っ払ってしまったジョーは大声で歌いながら町を練り歩き、それだけでは飽き足らず、ケンタッキーの表に佇んでいるカーネル人形をかついで遁走したのである。酔っ払っている時というのは、人間はいつもと異なる世界に生きているもので、なぜそんなことをしてしまったのか、ジョーは我がことながら全く解せないのだと言う。不審に思った店員が通報し、駆けつけた警官を見た途端、ジョーは酔いが覚め、現実世界へ回帰したのだけれど、自分の腕の中で微笑んでいるカーネルを見て心底恐ろしく感じたのだそうだ。
「まったく、どうしてカーネル人形なんて盗もうとしたんだよ」
「知らねえよ。こっちが聞きたいぐらいだ。そうやって過去のことを蒸し返すな、傷にワサビをすりこむような真似はやめてくれ!」
ぼくは想像してみる――電飾看板に彩られた夜の町、パイナップルのような頭をした若者が、真っ白い等身大の人形を小脇に抱えて闊歩している風景を――それはあまりに突拍子がなく、薄気味悪く、哀しかった。
カウンターの向うには目黒さんが一人佇んでおり、ぼさぼさの頭にタオルを巻きつけ、夜を徹して御茶漬けと格闘していた。この店の名物であるかき揚げ茶漬けを、賄いとして自ら毎晩食しているせいだろうか、もともと痩せっぽちだった彼の腹周りは不自然な曲線を描いて膨張しつつあった。これ以上太くなったらば、そろそろ健康診断に引っかかりそうだな――ぼくはそんなことを考えながら、彼のウエストを眺めていた。
八、もたれる胃袋を抱えて、家に帰ろう
「やっぱり、大盛りは多過ぎたんじゃないか?」ぼくは不自然に膨張した腹を抱えて、よろよろと歩む。
「そうかな、私はあのくらいが適量だけれど」胃下垂の我が妻は、けろりとした顔つきでいる。
町はすっかりオレンジ色に染まっていた。そのオレンジ色に溶け込みながら、カーネル人形を背負った誰かが、駅前通りをとぼとぼと横切って行くのが見えた。それが五島さんなのか町内会長なのか、はたまたアングラ劇団員たちなのか、もしくはぼく自身の姿なのか、分からなかった。なるほどこの町にも、分からないことがまだまだ沢山あるものだ――ぼくはそんなことを思っていた。
copyright2009(C) OKADA HUMIHIRO